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死にたくなったので「運命ふざけんな」、ともやしを炒めた

ううん、気が滅入る。そこはかとなく死にたい。私は何のために生きているんだったか。……いやいや、そんな事を思ってやるなど運命に癪だ。
そうだ、もやしでも炒めよう。

そんな事を、今日ふと思いました。

「死にたくなる」スイッチを手に入れた頃

死にたい、という気持ちを時折抱くようになってもう十年以上が経ちます。

聞くところによると、どうやら世の中には「死にたい」と思うタイプの人間と思わないタイプの人間がいるそうです。どうやら後者の場合、生まれてから死ぬまで一度も「死にたい」と思わないのが普通なのだそうです。

私がこの「死にたがる」タイプになったタイミングはわりと明確で。学生時代にけっこう長期間嫌がらせを受けた頃からカチッと「死にたくなる」スイッチを手に入れてしまいました。

そのうちに嫌がらせは終わり、何ならその相手と会えば遊べる程度にまで関係を改善できたのですが(それが良いのかはわかりませんが)、困ったことに「死にたい」というスイッチだけはその後も私の中に残ってしまいました。ことあるごとに「死にたく」なってしまいます。

「いやいや、どうして嫌がらせを受けただけで死ななきゃならんのだ」と客観的には思います。思うのですが、いかんせん死にたい。理屈じゃないんだなこれは、とそこそこ幼かった当時の私も理解しました。

大学時代に精神科にも行ったものの「健康ですね」とのことで。「死にたい」と思う脳の回路が増設されるぐらいは、どうやら病気ではないようです。そのうち『抑鬱』という状態が鬱病やらとは別に在ると知り、そういうものかと妙な納得をしました。

死にたい人生と、「死なない」理由探し

この忌々しくも逞しい「死にたい」感情は理由がなくても顔を出しますが、理由があるとさらに強くなります。

恥ずかしながら大学で一年ほど留年してから就職するまでの間は、「このまま就職できないくらいなら死んだ方がマシでは……」説が自分の中でわりかし有力でした。何とか就職はできたので、死ななくてよかったですが。

なので対抗するには、逆に「死なない」理由を見つける必要がありました。例えば今死ぬと親が大変だとか、将来大勢の人を救ってみせるとか、素晴らしい物語を読むためだとか、作家になって書くためだとか。

わりと壮大な内容もありますが、言わば自分の中で「死にたい」という気持ちに折り合いをつけるにはそこまで大きなものを持ち出す必要があり。今でもそれは続いています。(作家志望ですし、スタートアップもできるだけ早くやりたい)

どれも悪くはなかったのですが、どれも先行きが怪しくなると「死ぬ理由」に早変わりするという難点がありました。「死なない」に値するほど素晴らしい物語にいつ出会えるかは運次第ですし。

そんな中で。私が見つけた究極の「死なない理由」は、「運命に対する反骨心」でした。

「死なせたがる」運命に負けたくない

人間、追い詰められた時の最後の原動力は『怒り』だと思います。忙しすぎてどうしようもない時、何に対してかもわからずぶち切れながら作業をこなして乗り切った、という経験がある人は多いんじゃないでしょうか。私だけ?

ともあれ怒ってる間は死ななくて済むわけですが、しかし問題は「何に怒るか」ということで。

実在する相手に怒るのを原動力にすると、その相手が困ってしまいます。それはよくない。じゃあ神様辺りでどうかというと、日本の創作物でさんざん人間っぽく描かれてる神様をそこまで嫌いになるのも難しい。

なので私は、「運命」にその役を担ってもらうことにしました。

実際のところ、世の中は「仕組み」で成り立っています。社会システムから物理法則、原子と分子に量子論。運命論というのは「キャッ、この人が私の運命の相手かも!?」という少女漫画以外に、「これが運命、天命なのだから仕方がない」と受け入れる時にも使われます。

で。だとするなら、「この『死にたい』感情を押し付けてきた運命の思い通りに、嘲笑われながら野垂れ死ぬなんて冗談じゃねえよバカ野郎」という話も成り立つわけで。

無茶苦茶ではありますが、これが結構私には役立ちました。
「死にたい」と思った時、特に子供の頃から生きがいだった小説を書くことで挫折して限界まで追い詰められた時。「どうせ死ぬなら、運命の鼻面を殴りつけて死んでやる」とどうにか奮起する。

そうやって――それ以外にも色んな「死なない」理由を探して積み上げて、自分ってモノの生きる意味を考え抜いて。
今日まで私は生きてきました。

「死なない」理由その99、『もやしを炒めるため』に生きる

今では「死なない」理由探しの達人になった私が思う「死なない」コツは、「限界までスケールの大きなことを考える」か、「限界までスケールの小さな目標を立てる」です。

前者は宇宙とか海に比べれば、というやつで、自分の悩みを相対化して気にならなくする効果があります。運命もこっち。

後者はスケールの小さな、簡単に達成できる目標を立てるやり方で、教育分野ではスモールステップとか呼ばれてるやつ。最近は米軍最強のSEALsさんでもメンタルを鍛えるのにやってるとか聞きました。

そしてつまり。今日の私が採用した「死なない」理由が、『もやしを炒めるため』でした。(もやしが出てくるまで長かったですねー)

少し前まではホットケーキミックスでパンケーキを焼く、だったのですが、最近はカロリーを気にしてもやしに。温かいし胡麻油の美味しさでたくさん食べれるし、意外と充足感があります。

料理を作る、というのはいくつかの工程があるので、その工程を全部やり切ると達成感と、ちょっとした自信になります。「少なくとも、今の自分も料理はできたな」と。それが大事。

もっとも私はロクに料理ができないので、「簡単に作れる」の範囲にあるパンケーキともやしを炒めるスキルだけが脈々と向上していますが……。

ともあれ、99個めかはともかくとして、積み上げてきた山ほどの「死なない」理由、生きる理由として。『もやしを炒める』ことで、今日も私は生き残りました。

そしてもちろん。こうしてnoteで自分の気持ちを書いて整理することも、その一つ。普段はできるだけポジティブな話を選ぼうとしているつもりではありますが(何となく負けた気がするので)。書いてみるとやっぱり悪くないですね。

「死にたい」って気持ちがあると、少しばかり大変です。
「死にたがり」スイッチのない人に比べて、思う通りに行かない気がするなぁ、と思ったりもします。
結婚とか、できるんだろうか? 抱えた夢や目標のうち、いくつを実現できるだろうか。わからない。

でもそれだけの理由で運命に負けたくない。「死にたい」と思うのも自分なんだから、「死にたい」ままで、自分らしく生き抜きたい。

ムカっ腹の立つあんちきしょうに、いつか「どうだ見たか! お前の思い通りになんかならず、私はこんな人生を生き切ったぞ!」と笑顔で勝ち誇って悔しがらせてやるために。

私はもやしを炒めながら。誰にも負けない自分の人生を、自分らしく生きていきたいと思うのでした。

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(炒めたもやし。胡椒の粒が何となくグロテスクですが、イカもタコも、もやしも人生も。見た目がヤバいほど良い味がある。……と、いいなと笑
少なくとも今日のもやしは温かくて、美味しかった!)

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