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夜は猫とnight walker

赤穂に初めて立ち寄ったのは、それこそ、どこか瀬戸内沿いの帰り道だった。理由はよく覚えていないけど、これも探し当てたのは妻だった。

確か、事前に見たのは野良猫がたくさんいそうとかそんな情報だった気がする。
元来、犬が大好きだったはずが、いつのまにか友達は猫だけになった妻と私の数少ない安らげる時間は夜の散歩だった。
京都は本当に人が多い。人にうんざりした時、サノスの指パッチンを夢想するのを禁じ得ない(ごめんなさい)。

「ホーム」レスの生活は、いくらコロナ禍で京都の宿の相場が下がっている時期とはいえ、毎晩のホテル代が積み重なれば、とんでもない金額になることは目に見えていたし
安いのは1泊のみで基本的には連泊できなかった。ホテルというのは旅行だからいいものの、全く気は休まらず、また狭い部屋に精神を病んだ人間二人が推しこもって暮らすのは苦痛でしかなかった。それにホテルのチェックアウトは基本的には午前10時である。私が出勤し退勤するまで病に臥せった妻は街に放り出されることとなる。そこで何が起きやしまいか常に不安に苛まれていた。私は私でホテルから直接、勤務先へ向かい退勤後に妻を何処かへ迎えに行き、その日泊まる宿を探すという本当に綱渡りの生活だった。

そんな私たちはたくさん夜の街をただただ歩いた。
英語でナイトウォーカーという言葉があるらしい。
売春婦や強盗などを指す隠語のようなものらしいが、さしづめ私たちはナイトウォーカーだった。(強盗と売春婦がいっしょくたにされてるのもどうかと思うが、それは私たちの話とはまた別のお話。)
夜は人がいないし静かな街は気が安らいだ。精神を病むと、人がいるだけでしんどいし疲労する。以前から、人間は水の中にいる魚のようなものだと感じていて、その場所、その場所、固有の浸透圧があると感じる。そしてその浸透圧に耐性がある魚と耐えられない魚がいると感じている。夜の浸透圧は傷だらけの私たちには優しかった。
それに夜の通りには人のかわりに猫が街に出る時間だ。
私と妻は夜の京都をたくさん歩いた。人がダメになった私たちには夜の時間、猫の時間がぴったりだった。私たちは、通りで馴染みのおばさんに挨拶するように、馴染みの猫にあったら挨拶し、いつものところに猫がいないと「今日はお出かけかしら」と噂した。

ハイロウズの曲で「よろこびの歌」という歌がある。あれは一人で真夜中にうろつくナイトウォーカーの名曲だと思う。もし疲れたら夜の街をうろつくだけでも少し気が晴れる。ただ歌詞にあるように「おまわりが見て」くることもあるし、女性が一人で夜歩くのは怖いし、男性ひとりの場合は逆に女性を怖がらせないよう配慮が必要だ。女性はそういう点でも社会的に損している。女性専用車両とかみたいに、しんどい人のナイトウォーク特区みたいなのとかが頭をふとよぎるけど、そういう問題でもないのだろう。

その点、私は妻と二人で歩いていたので傍からみれば「夜に散歩する仲良いカップル」だったかもしれない。それでもれっきとした「ホーム」レスだった。気楽風に書いているけど全然気楽じゃなかった。夜の浸透圧が心地よいということは、「ホーム」レスである私たちが確実に、売春婦や強盗など社会的にマイナーな領域に近づいていることの証拠だ。まだ私たちは売春婦でもなければ強盗でもないし「ホームレス」でもない。それどころか、まだ書いていないが、そこから赤穂に逃げ出した今の私の状況は上り調子に見えるかもしれない。だがそれがなんなんだ。全然そんなことないと感じる。まだまだナイトウォーカーの「隣の席にいる」くらいの自覚はある。社会からはみ出すということは、きっとそういうことなんだろうなと思う。最初は自分も周りも「まぁだだよ」って感じで浅瀬と思っているわけだど、全然、遠浅なだけなのだ。

続く

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