教師としての仕事、言葉の怖さ

 これまでの人生の中でも、先輩後輩みたいな関係の中で、人と接してきた。

 ありがたいことに慕ってくれる後輩や可愛がってくれる先輩にも多く出会えた。その一方で、当然ではあるが、私のことを気に食わない、疎ましいと思っている人も多くいたと思う。それは当然のことだろう。

 そんな中で、後々の会話やSNSでの発信から、自分の言葉が思いのほか他者に影響を与えていたことに気づかされることがある。それは冷静に思い返せば自分が誰かの一言に影響を受けていることと同じなのだろう。

 特に大学生、大学院生の時は他者からよく影響を与えられ、そして影響を与えたと思う。尊敬する先生たちから、友人から。先輩後輩から。そして、先輩後輩や友人へ。そういった言葉は場所と立場が変わった今でも同じように使っているだろう。人に影響を与え、影響を与えられる。

 いま、教師として働いている。国語の教師だ。教師としての仕事は言葉や行動から、他者である生徒に影響を与えるものであるように思う。私自身、人間は自分自身によってしか変わることのできない存在だと考えているから、自分が生徒に与えることができる影響とはそんな多大なものではないと思っている。教師なんて人種はそんなに影響を与えるできるような存在ではない。自惚れてはいけない存在だと思っている。

 一方で、これまでの人生で感じてきたように、言葉の一つ一つが何らかの影響を及ぼす可能性もある。自分が語った何気ないものが、何らかの影響を他者に及ぼしていたように。あるいは、他者の言葉に自分が影響されていたように。

 その影響は、喜ばしいものであるときもあれば、悲しい結果を生み出すものになるときもある。私は教師として生徒と接している以上、喜ばしい成果を生み出す影響を与えられる言葉を奏でていたい。それと同時に怖ろしく思う。自分の言葉や行動が、生徒の心を傷つけたり、暗くしていないか。生徒と言葉を交わすこの職業、ふとしたはずみの発言がなんらかの影響を及ぼしてしまうかもしれない。それが怖い。

 我々の仕事では人を変えることは難しい。でも、裏を返せば、難しいことではあれ、人を変えてしまうことがある仕事だ。だからこそ、人を変えてしまうきっかけとなる言葉、これを弄することに怖さを感じることがある。そういう怖さを感じることなく、他者の心に入り込んでいく人が、人を変えられる「いい教師」なのかもしれないけれど。でも私は、他者を変えてしまうかもしれない「言葉」に畏敬の念を持ち、そして悩みながら接していきたいとおもう。

 願わくば、我々の言葉が、生徒の心のどこかに残り、支えとなることを。そして、生徒自身が自身を変容させる強さを得る、そういう糧となることを。

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