【掌編小説】ピアニッシモ

私は好きでもないけどタバコがやめられない。
一人暮らしには少し広いマンションのベランダに立って、ピアニッシモに火をつける。
決して良い匂いだとは思わない。
メンソールも最初に一口以外に心地よいと感じることはない。

でもタバコの匂いと一緒に思い出されるいくつかの思い出は私の胸を程よく締めつけて心地が良い。

対岸のマンションや街灯の明かりの影響で、夜でもベランダから川が見える。
あの川はもう少し下流に行けば東京湾に流れ込む。
昼間でも川の濁った水は底が見えない。
なんだか私の心みたいだなと感傷的なことを考えた。

私は口を大きめに広げてもわっと煙を吐き出す。
煙は風に吹かれてあっという間に形を失って見えなくなった。

「ねえ、あなたも吸う?好きでしょ、ピアニッシモ」
私は振り返って室内に向けて言葉を投げた。
帰ってくる言葉はなく、私の言葉は煙のようにどこかに消えてしまった。

まだ半分ほど残ったタバコを咥えたまま室内に戻る。
間接照明だけが付けられた部屋の中はオレンジ色の光に照らされて妙に影が目立つ。

「どうぞ」
私は咥えていたタバコを指で摘んで差し出す。
タバコの吸い口には少し赤いシミが出来ていた。
「あ、ごめん。これ口紅じゃないから大丈夫だよ」

私はそっと彼の口元にタバコをもっていく。
「吸わないの。そうだよね」
私は自分で言っておかしくなって少し笑った。

「あなたはもう吸えないかもしれないけど、私はタバコを吸うたびにあなたのことを思いますよ。きっと綺麗でちょっと切なくて胸が苦しくなる思い出として」
私はそう言いながら彼の頬をそっと撫でた。
私の言葉はだんだんと弱く、小さくなっていた。

「さてと、手を洗わなくちゃ」
洗面台で鏡の前に立つ私の顔は赤い飛沫で汚れていた。

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