【短編小説】ドライフラワー⑫(第3章)
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彼女の表情があまりにも悲しげで、考える余裕もなく声を掛けてしまったことを私は今更、後悔していた。
きっと失礼な私の振る舞いに彼女は腹を立てていることだろう。
事実、彼女の顔にあの男に見せるような瑞々しい笑顔はない。
むっつりと黙ったまま、工房に飾られた人形たちを眺める彼女の横顔を見ながら、私はそんな悲観的な想像をしていた。
工房内の空気を循環させるために働く扇風機の風が、普段ならばおがくずの匂いで満たされている室内に、ほのかに漂う彼女の甘美な香りを浸透させた。
ほっそりと締まったあの美しい脚に不具が生じているなどとは私には到底信じられなかった。
彼女は私が最も気に入っている人形の前で立ち止まると、左右から覗き込むようにしてしげしげと眺めていた。
「気に入ったかい?」
「ええ、まあ」
淡泊な返事ではあったが、先程までよりは幾分表情が柔らかく見えた。
「それはもともとかなり古い人形らしいんだ。部品を取り換えて少しずつ修理して、この前完成したばかりなんだ」
ヴィクトリアンドレスを纏ったその人形はアンティークドールにありがちなおかしな頭身ではなく、人間のそれに近かった。
「素敵ね。何もかも完璧な姿に思えるわ。綺麗な人をお人形さんに喩える理由がよくわかるわね」
そう言ってようやく彼女は相好を崩した。
「本当はね、脚だってものすごく痛いわけではないの。ただ少し違和感があるだけ。これまでいろいろなことが上手くいき過ぎていたから、ちょっとしたことでも失敗や挫折に臆病になっているのね。きっと」
彼女は少し迷いが減ったように爽やかな表情で言った。
私もそんな彼女の目を見て頷く。
「早く治してまた走れるようにならないとね」
「ええ、いつまでもウジウジ悩んでいても仕方ないわね」
これが余計な助言であることは自分でも気付いていたが、言わずにはいられなかった。
怪我が治れば、彼女はまた部活に参加し、あの男と親密になってゆくのだろう。
そうなればそれこそ自分が入り込む隙なんてなくなってしまうのではないだろうか。
駅へと続く坂道を下ってゆく彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、私は工房の前の歩道に立っていた。
工房に戻って、机の上に置かれた紅茶を一口含むと、数時間前に煮出されたアールグレイは冷えて苦味が増していた。
⚪︎⚪︎⚪︎
「どうして。どうして私ばっかりこんなことになるの」
私は言葉を抑えることが出来なかった。
考えは何度も同じ所を巡り、もうすでに進むことも戻ることも出来ないように思われた。
現実を受け入れまいと、どんなにもがこうとも絶望は私の前に立ち塞がって微動だにしなかった。
雨粒が私の部屋の窓を容赦なく叩き続ける。
一向に明ける気配の無い長梅雨は私の心を象徴するかのようだった。
先日、工房の彼と話をして僅かに勇気を得た私は、右脚の違和感を診察してもらうために病院へと出向いた。
「簡単な検査をしましょう」
穏やかな口調でそう言った医師の表情は僅かばかりの険しさを含んでいるように私には見えた。
検査結果を確認して戻ってきた医師は最初に私ではなく、付き添いに来ていた母を呼んだ。
診察室から出てきた母を見た時、私は血の気が引くと言う言葉の本当の意味を悟ったように思った。
土気色した母は私と目が合うと、すぐに目を伏せた。
「こっちに来なさい」
伏せた目を上げることなく、か細い声で母は私を呼んだ。
私はその言葉に従って、母の後ろに付いて診察室の中へ入った。
そこからのことはあまり正確に覚えていない。
世界の全てがモノクロの無声映画のように感じられた。
医師もいかにも深刻そうな演技をする俳優のように思えたし、隣で泣き崩れる母の声は一切耳に入って来なかった。
ただ一言だけがはっきりと私の鼓膜を震わせた
「転移の速い病気なので、右脚は膝上まで切断を余儀なくされるかもしれません」
医師は感情の宿らぬ瞳ではっきりと私に告げた。
窓を打つ雨音を、いや、外界の全てを避けるようにして、潜り込んだ布団の中で私は自身の運命を呪った。
一月前までは新しい環境で、鮮やかな夢や希望を抱いていたというのに。
見えない所から私に迫っていた病は、私の夢も希望も、人生さえも根こそぎ奪っていくように思えた。
涙もいつか枯れるとどこかで聞いたように思ったが、私の目から溢れ出る涙はいつまでたっても枯れることはなかった。
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