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ドライフラワーあとがき+(全文掲載)

ええ、今回書かせていただいた文章、非常に読みづらい構成になっております。
申し訳ございません😭

愛の形も文章構成も歪んだ、ごちゃごちゃした文章が書きたい!という欲望に任せて書いてしまいました(笑)
文体、表現も極力キザな感じなど意識してましたので気持ち悪い所も多分にあるかと思います。
この読みにくい文章に最後まで付き合っていただいた方にまず感謝でございます!

そして文章構成やオチの性質上、細切れでの投稿には不向きだったと改めて勉強になりました😅

かなり不親切な文章だと思いますので、せめて時系列と登場人物の情報を少し整理しておこうかと、、、
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【時系列】
~約50年前
・第三章⇒●●●、〇〇〇で始まる段落
(第一章の男性と彼女②の過去の話)
※視点が男女交互になっています

~約32年前
・第二章⇒***で始まる段落
(第一章の彼女①の過去の話)

~約30年前
・第一章全体⇒ ---①など数字で始まる段落
(男性と彼女①の出会いの話)

~約30年前
・第二章、第三章
⇒◆◆◆で始まる段落(第一章のその後)

〜現在
・プロローグ(前編)、エピローグ(後編)
⇒(現在の男の話)
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【登場人物→出てくる段落の頭にあるマーク】
・男性の私→(***以外全て)
・彼女①→(第一章、◆◆◆)
⇒***の段落では「私」
・彼女①の母親(***)
・彼女①の元婚約者(***)
・彼女②→(●●●、○○○)
⇒○○○の段落では「私」
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一応上記のような時系列、登場人物になっています。

細切れに投稿することによってさらにわかりにくいことになってしまったと反省しております。
以下に年代を記入した全文を載せておきます。

もしご興味あられる方は時系列を意識しながら読んでみていただけると嬉しいです。

〜〜〜〜〜

ープロローグー 2022年(前編)

忘れるという作業は私にとって実に容易で難しい。
今もぼんやりと書棚の前に立っているが、一体どの本を探しに来たのか思い出せない。
それにも関わらず、隣の寝室から聞こえてくるモルダウの流麗な調べが、鍵盤によって紡ぎだされる柔らかな音色が、この耳に入る度に私の脳は官能的な刺激に浸る。
完全なものはそこに存在して当たり前のものとなるため、時としてその存在を忘れ得る。
しかし、それは記憶の底に沈殿した澱のようなもので、ささやかな刺激によって一度舞い上がってくるといつまでも脳裏を過って忘れることが出来ないものだ。
そして不意に舞い上がってくるこの恍惚とした感情こそが、私が自身の作品に対して丹念に注ぎ込んだものだと言える。

よくあるそれのように、頭部だけがやたらと大きく、不自然なバランスの頭身ではなく、人間のそれとほぼ等しい頭身を持ったアンティークドールや自作の人形が、静物画のようにひっそりと邸のあちらこちらに飾られている。
至る所に配された人形たちは、邸全体の雰囲気を損なうことなく見事に調和し、邸を一種の異質な空間とすることに一役買っていた。
方々から集めたもの、自作のものを合わせると、その正確な数は幾つとも知れないが、中でも私が特に気に入っているものが寝室に一体、それからこの書斎に一体飾られている。

人形たちが痛まぬよう、湿度管理が徹底された部屋の空気は渇ききっており、埃臭いような独特な匂いに、喉がチクリと痛んだ。
しかし、この痛みも私にとっては慣れ親しんだものだった。

隙間から西日の差し込むカーテンをそっと開け、赤々とした日差しを採り入れる。
換気のために些か開けた窓から穏やかな風が流れ込む。微風を頬に感じながら私は揺り椅子に腰掛けた。
眩しさに目を細め、囁くような声で彼女に語りかける。
「このモルダウの音色のように、美しいものは色褪せることなく美しい」
腰掛けた揺り椅子を小さく軋ませて、彼女は無言のまま一点を見つめている。
私の言葉が彼女に届くかどうかは重要ではなかった、どんなに小さな声でも、あるいは言葉でなくても構わない。
私の思いが彼女には伝わるであろうという強い自負があった。
今、目の前に存在する作品にはそれだけの魔力が宿っていると確信していた。

春の風に煽られて黒いワンピースの裾がハラリと乱れ、滑らかに磨き上げられた象牙のように美しい彼女の足首がチラリと私の目に映り込んだ。

【第一章】 1992年〜夏〜

---①

山の頂にわずかに冠雪の残る春の日、彼女は高層ビルの建ち並ぶ街を幾つも越えて、私の住む片田舎へ静養にやってきた。
まだ若かった私は、絹のように白く、ガラス細工のように繊細な彼女にたちまち夢中になった。
思い描く理想に限りなく近い彼女の造形が、私の心を強く刺激したのだった。
久しく忘れていた、消えかけていた感情の脈動を確かに感じた。
当時、私は制作に若干の行き詰まりを感じており、理想を追求しようにもその理想が現実としての質感を全くもって伴わないものとなってしまっていた。
もしかしたら、本当に美しいものなどはこの世には存在しないのではないかと、私の考えは深い地の底を彷徨った。

彼女の存在はそんな私の暗闇に差し込んだ一条の光であるとも言えた。
都会の汚い煙を吸って育ったなどとは到底思えない程の透明感と汚れの無さは私に新たな活力を与えてくれた。
それと同時に心の奥底で考えてしまうのだ、彼女の美しさはその造形に起因するものなのだろうかと。
あるいはその中身が腐臭を放ってこそ、彼女は刹那的な魅力を持ち得るのではないだろうかと。
過去の経験から生じる疑念はいつまでも私の頭の中をグルグルと駆け回り出て行こうとはしなかった。
そして私はこう結論付ける。
彼女を愛することで、前述のどちらであったとしても最終的に私の求める答えにたどり着くことが出来るのではなかろうかと……

---②

「肌が弱いから」
そう語る彼女は、もう七月になろうというのに長袖の黒いワンピースを着ている。
袖からのぞく白い手は、もしや血が通っていないのではないかと疑いたくなる程に弱々しく細かった。
それを見て私は丁寧に塗り上げられた陶器を連想して恍惚となった。
「紫陽花が綺麗に咲いているのね」
山間のこの土地は気温が低く、七月の中旬まで紫陽花が花を付けている。
薄紫色の花に顔を近付けて彼女はその表情を崩した。

彼女が顔にかかる髪をよけた時にわずかにのぞいた首すじには、紫陽花と同じ薄紫色の痣が浮かんでいた。
体調が芳しくないのだそうだ。
先週末、彼女は東京の病院で治療を受けてきた。
私に対して彼女が自身の病状を詳しく語る機会は少ないが、春に初めて彼女を見た時と比較しても衰弱していることは明白だった。

その頃からであろうか。
私は少しずつ焦燥を感じるようになっていた。
もしかすると、彼女にはもう余り時間が無いのではないだろうか。
しかし、このとき私にはこの焦燥が一体何に由来するものなのかはっきりと見定めることは難しかった。
彼女との関係を進展させることに焦っているのか、あるいは結論を見出す前に彼女の完全性が揺らぐのではないかという不安によって生じるものなのか判然としなかった。
いずれにせよ、私には目に見えて弱っていく彼女の姿から幽玄と形容するに相応しいような魅力を感じ、一方で、残された時間はそう長く無いだろう、そんな無慈悲な確信を抱いていた。
そして、その確信は私の心の隅にいつまでも居座った。

---③

「この川の水はやがて東京へ流れて、そして海へと還ってゆくんだ」
私が発した言葉に、彼女はつばの大きな麦わら帽子が飛ばされないように片手で押さえながら頷いた。
「あの東京と繋がっているなんて信じられない程ここの空気は澄んでいるわね」
 そう言われて私は深く息を吸った。
土の匂い。
水の匂い。
木の匂い。
それから彼女の匂い。
初めて出会った春よりも近い、甘い匂い。
そして、
……夏の風の底でほのかに薫る何かが朽ちてゆくような甘美な匂い……
私はそれらの匂いを堪能して、ゆっくりと返事をする。
「本当にそうだね」

風に吹かれて波立った水面に陽光が反射して無数の魚の群れのように見えた。
彼女は目を細めて水面を見つめている。
その横顔はどこか作り物めいて見える程に整っていて、長い睫毛が描く緩やかな曲線は芸術的ですらあった。
私はその光景をしっかりと目に焼き付ける。
そして心の内で密かに計算する。
理想的な瞳の形と睫毛の長さ、眉や鼻との位置関係を。
「そんなに見ないで。恥ずかしいわ」
「絵になるなと思って」
彼女は頬を少し赤らめて、私の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「あなたの瞳はすごく明るい茶色なのね。少しだけ緑ががっているようにも見えるし、なんだか吸い込まれてしまいそうな不思議な色だわ」
「昔から色素が薄いんだ。最近になって瞳の色はますます明るくなっているような気がするけどね」
彼女少し前屈みになって興味深げに私の目を見つめていた。

「今何時かしら」
はっとしたように彼女は目を大きく見開いて言う。
髪が風になびいて胸元がわずかに露わになる。以前よりも痩せた彼女の身体はその身を包む服との間にやや大きな隔たりを生んでいた。
「もうすぐ三時になるね」
私は彼女の胸元から必死に目を逸らし、腕時計を確認して言った。
「大変、おばあさまの家に戻らないと」
「そうか、じゃあ家まで送るよ」
彼女の白い肌に浮かぶ薄紫色の痣は私の気持ちを狂おしい程に掻き乱した。

車は道路の凹凸に合わせて度々小さく弾んだ。
「こっちに来てから私、あなたに色んな所に連れて行ってもらってるわね」
助手席の窓を開けながら彼女が言う。
「あんまり連れ回して体調が悪化したりしないといいけど」
「そんなことないわ。初めて見るものばかりでとても新鮮なのよ。でもおばあさまには内緒ね」
悪戯っぽい表情を作って彼女はコロコロと笑った。
そんな彼女を見ると、先日までの自分の考えはまるっきり的外れなのではないかとも思ったりするのだ。
本当は彼女はこの土地での療養が順調に進んでいて、快復に向かっているのではないかと。
「これからももっと色んな所に行って、色んなものを見よう」
自分の口からこんなにもチープでつまらない科白が出たことに驚いたし、気恥ずかしさも覚えた。
しかし、一方で彼女とのこれからを約束するにあたって、これ以上の言葉も私には見付からなかった。
間の悪さを取り繕うように私は言葉を続ける。
「じき七夕だろう。星を見に行こう。東京の空じゃ天の川は見えないだろう?」
「本当に。嬉しい。東京では星だってそんなに多くは見えないもの」
心底嬉しそうにはしゃぐ彼女を見ることで、私の心はにわかに平静を取り戻すのだった。
時折、木立ちの間を駆け抜けてゆく車のタイヤに踏み潰された木の枝がパキッと高い音を立てて弾けた。

---④

七月七日、いつもの待ち合わせ場所である駅前の時計塔に、生真面目な彼女には珍しく少し遅れてやってきた。

身に纏う純白のワンピースとは対照的にその表情は暗く曇り、抑えた感情が今にも溢れ出すのを必死に堪えているように見えた。

私は、自身の脳裏に過った考えに胸が苦しくなったが、次の瞬間に彼女が発した言葉によって、その考えは杞憂に終わった。

「おばあさまが……おばあさまが倒れたの」
数日前のことだった。
彼女が散歩から戻ると台所で祖母が倒れていたのだそうだ。
脳の血管が破裂して、今も意識が戻らないのだという。

「そんな……病院を空けて大丈夫なのかい?」
「意識もないし、私がいても何も出来ることはないから。それに東京からお母さまも来ているし……」
彼女に対して掛けるべき言葉が見付からず、私はただ木偶の如く彼女の前に立ち竦むより他になかった。

彼女は瞳を潤ませて私の顔を見た。
その表情は数秒、厳密には一秒に満たなかったかも知れないが、私の心を捉えるのには充分であった。
おずおずと、しかし、強かに私は、彼女の細い身体を自身の胸元に引き寄せた。
こんな状況でも私は直接伝わってくる彼女の生きた体温に興奮を覚えていた。

「ありがとう」
彼女は私の胸に顔を埋めて言った。
「ごめん」
何故だかはわからない。無意識に口をついて出た言葉だった。

車へと場所を移し、彼女が落ち着くまで私は黙って彼女の手を握っていた。
「ねえ、約束通り星を見に行きましょう」
囁くように発せられた彼女の声は気丈に振る舞おうとする少女の強がりを孕んで私の鼓膜を震わせた。
「でも……」
「いいの。星が見たいの」
彼女の祖母のことを考えると、私は彼女の意見に賛同しかねた。
「私ね、わがまま娘だから。お母さまにもよく言われたわ」
そう言って真っ赤な目を無理矢理に細めて作った笑顔は、途端に夜の闇に呑まれてふつりと消えた。

車はライトを上目にしてサスペンションを軋ませながら林道を進んでゆく。
わずかに開けられた窓から流れ込んでくる外気が車内に満ちて、夜の湿気を帯びた森の匂いを私に伝える。
昼間に蓄えた温もりを、森は白く立ち込める霧として空へ返した。

小高い丘の上に出ると森が急に拓けて、視界全面にダークブルーの空が広がる。
空は中空にロマンスグレーの豊かな髪を揺蕩わせている。
サイドブレーキを引いて車のヘッドライトを消灯すると、辺りには太陽の光を反射して淡く光る半月と星の光だけが煌々と輝いていた。
「ほら、あれが天の川だよ」
丘の突端まで歩き、空の、その美しい髪を指さして私は言った。
「すごい。どれ、どれが織姫と彦星なの」
「あの一際明るい星が織姫で、川を隔てて、その右下にある……ほら、あれが彦星だよ」

彼女は私の指の示す先を必死に見つめている。
私はその美しい横顔をひそかに視界の端に収める。
風が止み、虫も鳴かぬ、時間さえも止まったのではないかと思う程の静寂。
その静寂を彼女が澄みきった声で引き裂いた。
「私、東京に戻らなければならないの。おばあさまも私と暮らすことは出来なくなってしまったから……」
私はその言葉をある程度予測していたが、それでもやはり飲み込むまでには多少の時間を要した。

「そうか」
小さく呟くと私はまばらな緑が地面を覆う足下に寝転んだ。
……星が流れたなら良いのに……
そうすれば私はすぐに星に願いを懸けただろう……君を、このまま……

どれくらいの時間そうしていただろう。
ただ空を見上げたまま、私はぼんやりと彼女の言葉を頭の中で反芻していた。
「綺麗ね。この沢山の星たちは今も燃えているのかしら。……それとも」
私には彼女の言葉の意味するところが理解出来た。
そして切なくなった。
苦しくなった。
それと同時に二人で川を眺めている時にははっきりとしなかった焦燥の理由が自明のものとなった。

「一緒に暮らそう」
考えた末に出てきた言葉ではなかった。
それはあまりにも自然で淀みなく、空から聞こえてきたのではないかと自分自身が錯覚する程だった。
「そんな……急に言われても」
「大丈夫。川と同じ、続くべき場所に続いているさ」
私の言葉に彼女はゆっくりと頷いた。
私にはもう少しだけ彼女との時間が必要だったし、それは彼女にとっても同じことだった。
「二人で暮らすのね……」
私の言葉の意味を改めて確かめるような口調で彼女は言った。
彼女の手を握るべきなのか、口づけすべきなのか、私は戸惑ったが、そのどちらも必要ないのだと気付いた。
もう彼女はある意味では私の一部だった。
互いに重なり合う部分、あるいは感情の融け合う部分が存在することは明白だった。
また、私の感情と融和することで、その完全性が今後も保たれるであろうことを私はこのとき悟った。

私は立ち上がると、月明かりに照らされて青白く染まった彼女のワンピースの袖を引いた。
驚く程清涼な月の影に包まれて二人はゆっくりと歩調を重ねた。

車は林道のさらに奥へ。人里から離れた私の邸へと向かってゆく。

「さあ、中へ。入って」
扉を開けて彼女を邸の中へと促す。
彼女は雲に乗るかのようにふわりと、廊下に敷かれた赤い絨毯を踏んだ。
扉が音を立てて閉じる。
私は後ろから彼女を抱きしめた。
耳に、そして首筋にそっと口づける。
細い肩に触れ、そっと背中から手を入れてワンピースを下ろしてゆく。
雪よりもなお白い彼女の背中には所々、薄紫色の紫陽花の花が咲いている。
彼女の儚さを主張するかのように。
「恥ずかしがらないで」
彼女は手で身体を隠しながらも、その唇は私を受け入れた。
窓から差し込むわずかな光を頼りに私は、白く、青い、そしてわずかに赤みを帯びた彼女を寝室へと導いた。

【第二章】


*** 1990年〜冬〜

「こんなに立派なレストランに連れて来て頂いて申し訳ないわ」
コーヒーカップをソーサーの上に置いて私は彼に向かって言った。
「別に構わないさ。だって来てみたかったんだろう?」
「ええ、それはもちろん。いつも外から眺めていて素敵な店構えだと思っていたから」
「それならいいじゃないか。……僕のデザートも食べるといい」
そう言って彼はデザートの乗った皿を私の方へ差し出した。ベリーソースや生クリームで鮮やかに装飾されたガトーショコラは真っ白な皿の上に品良く鎮座していた。
「ありがとう」
「僕に遠慮なんかしなくていいんだよ。君のわがままなんてかわいいものさ」
彼はゆったりとした所作で肉料理と一緒に提供された赤ワインの残りを口に含み、反対の手では羊革の手袋を指先で撫ぜている。

「でもあなたにはいつも迷惑をかけてばかりだわ」
私は様子を窺うように上目使いで彼を見た。
彼は普段のように穏やかな目で私を見つめ返した。
正面から見つめられると、気恥ずかしくなって私は少し視線を伏せ、足元の籠の中に置かれたマフラーのチェック柄を眺めて気を落ち着けた。
こうして一緒に食事をするのは何度目だったろうか、いつ会っても彼は紳士的な振る舞いで私を安心させた。
それに、縫製の良い紺色のスーツをスマートに着こなす彼は、何事においても優雅さを損なうことはなかった。
今回の食事にしても彼のマナーは評価されて然るべきものであったし、その育ちの良さをうかがわせるには充分なものと言えた。
そういう点において私が彼を拒絶するような理由はなかったし、また、彼のことを拒絶出来るような立場ではなかった。

「美味しかったわね」
隙の無い動作で食器を片付けるウェイターを横目に私は言った。
彼は軽くネクタイを整えながら私の言葉に頷いた。

◆◆◆ 1992年〜秋〜

「さて、そろそろ行こうか」
すっと椅子を引いて席を立つと、彼は優しく私の手を引いた。
私は自身を導くその手をまじまじと見る。
神経質そうに見えるが滑らかなその指は私には美しく官能的に映った。
その繊細そうな手で彼は両開きの荘厳な扉を押し開けると、私を先に外へ出した。
「大丈夫?」
階段を下りる私の半歩手前を歩きながら彼は気遣いを忘れない。
出会ったころからずっと彼は気品と礼節を持って私に接してくれていた。
「ありがとう。平気よ」
彼の繊細な気遣いに対して、私は努めて気丈に振る舞った。
そうでもしないと自分の無力さを認めてしまうような気がして耐えられなかった。
せめて彼の前では一人の女性でいたかった。

「無理を出来る身体じゃないんだ。用心をしないと」
そう言った彼の表情は不安げながらも愛情に満ちているように思われた。
そんな彼の明るいブラウンの瞳を見つめて、私の頬は朱に染まっていただろうか。
「月が綺麗ね」
彼の瞳からわざと視線を逸らすように見上げた空に浮かんだ月を見ながら私は言った。
「本当だね。中秋の名月かな」
その姿を覆い隠すような雲も存在せず、涼やかな、月の明るい晩だった。
大きな満月の周囲に多くの星が見えた。
月の無い晩であればもっと多くの星が見えただろうと私は少し残念にも感じた。
夜空を眺めていると自ずと思い出される過去の思い出に浸りながら、私は彼の手をさっきよりも強く握った。

「ほら、早く車に乗って。身体が冷えるよ」
彼の手を握り、空を見上げたまま車の脇に立ち尽くしていた私は、彼の言葉に促されてゆっくりと車に乗り込んだ。

*** 1990年〜冬〜

「わざわざ送って下さってありがとう」
車を降りると、マフラーを巻きなおしながら私は彼に向かって軽く頭を下げた。
「ようやく仕事が一段落しそうなんだ。今度時間を作るからテニスでもしよう。また連絡するよ」
そう言い残して彼は窓から出した手をひらひらと振って車を発進させた。
丁寧に磨かれた黒塗りの高級車はするりと夜の闇の中に溶けて見えなくなった。

「おかえりなさい。お食事はどうでした?」
父が存命だった時と比べて肌艶の悪くなった母が玄関先で問い掛けた。
「素敵なお店でとても楽しいお食事でしたわ」
母は満足そうに頷くと私のコートを脱がせた。
不意に目の端で捉えた、痩せて骨ばった母の手が痛々しかった。
いや、痛々しいだけでなく、私はある種攻撃的な醜ささえもそこから感じてしまったのだ。
以前は女性的で程よい柔らかさを窺わせる身体つきをしていたのだが、その柔らかさの内に隠匿されていた人間としての脆さが、支えを失ったことによって一気に表出してきているかのような印象を受けた。

父が亡くなり、母と私の生活は一変した。
遺族年金と保険金を頼みにどうにか今の暮らしを維持してゆくのがやっとで、やがては臨界点に達することは目に見えていた。
その時、家庭が壊れるのが先か、母が壊れるのが先か、いずれにせよ私には恐ろしかった。

だから私は少々納得のいかない時にも、母の言葉に対して強く反発することはなかったし、極力母の望むように振る舞っているつもりだった。
しかし、そうしているうちに私は自分が本当に望んでいるものが何か、それがわからなくなってしまっていた。

「順調そうで嬉しいわ。彼はとても立派な方ですからね。あなたのわがままでせっかく築いた関係を崩してしまわないように気を付けなければいけませんよ」
そう、彼は立派な人だ。
家柄も性格も、社会への責任の果たし方も。
母の言う通り彼と将来を共にすることが出来れば、私たち家族も何不自由の無い生活が約束されるだろう。
だが、その将来は果たして自分が望んでいるものなのか、それとも母が望んでいるものなのか、私には見極められなかった。
だからこそ私は彼の好意を素直に受け取ることが出来なかったのだ。
また、その資格があるのかについても自信が持てなかった。
私は母の言葉を身振りで肯定して自室へと引き取った。

階段を上り終え、部屋に入ると私は大きく嘆息した。
少し階段を上るだけでも息切れするような私がテニスなんて出来るわけがない。
そんな自嘲的な思考を抱きながら鏡台の椅子に腰掛けた。
櫛で髪を梳かしながら私は愛とは一体何だろうかと考える。
当然、愛と一口に言っても、家族に向けられるそれと、恋人に向けられるそれとが異なるものであろうことは理解している。
ただ、もし仮に私が母のために彼と結婚することを決意した時、そこに存在する愛は家族に対して向けられるものだけなのだろうか。
彼の想いに応えることを私に踏み止まらせる理由として、微かに芽生えているであろう彼への愛の存在が私自身の足枷になっている気がしてならなかった。

私は鏡に映った自らの顔を眺め、その目の下の隈を数回擦った。
もちろん明確な根拠はないのだけれど、私は幸せを望んではいけないのではないかという気もしていた。

◆◆◆  1992年〜秋〜

「またこの曲かい」
私の肩に優しく手を置いて彼が言う。
「いいじゃない、好きなんだもの」
私の身内に沁みついたメロディーはいつだって心を落ち着かせてくれる。
「確かにとても綺麗な曲だ。穏やかで、それでいて力強いメロディー」
彼は瞳を閉じて私の奏でる音色に耳を澄ませる。
私は彼をもっと曲の世界に引き込もうと指先に意識を集中する。
指に僅かの力を込めて弾いた鍵盤が心地良い音色を響かせて私の指を跳ね返す。また私が弾き返す…… その応酬が美しい調を紡ぎだす……
ピアノの高らかな歌声は彼の広い邸の隅々にまで波紋してゆく。
ソファに身を沈めた彼は、両の手を組み合わせたまま身体で小さくリズムを取っていた。
この緩やかな、そしてささやかな時間が彼と私の愛を濃密なものにしてゆくのだという意識が私にはあった。

そしてふと、母のことを思い出す。
母も彼と同じように私の演奏するピアノに合わせて小さく身体を揺らし、時折、満足気に頷くのだ。
父が亡くなって、生活が苦しくなりピアノを売ってしまったため、この邸でピアノに触れられることは私にとって無上の喜びだったと言っても過言ではない。
そんな背景から私の演奏には自然と熱が入り、以前よりも遥かに感情豊かなものとなっていたように思う。
そして、彼は常に私の演奏の模範的な聴衆であり続けた。
そこには当然、私と過ごす、一瞬一瞬を大切にしようという彼の意識が存在していることを、私は何とはなしに察していた。

*** 1990年〜冬〜

「ごめんなさい。せっかく予定を立ててくれたのに急に体調が悪くなってしまって」
「気にすることないさ。テニスなんてまたいつだって行けるんだから」
電話越しに聞こえてくる彼の声は相変わらず穏やかなもので私を安心させた。
「お見舞いに行ってもいいかい」
「ダメよ。あなたにうつしてしまったら申し訳ないもの」
クスクスと彼の笑い声が聞こえる。
「たまには僕のわがままも聞いてくれよ。……会いたいんだ」
私が返答に窮しているうちに彼はそう言って電話を切った。

彼の強引さ、押し出しの強さは、決断力がなく引っ込み思案な私には都合が良かったと言えるかもしれない。
もしも彼が奥手な青年ならば二人の関係に進展はなかっただろう。

受話器を置いてから一時間も経たぬうちに彼は訪ねてきた。
階下では母が平生よりも一段高い声で彼を出迎えているのがわかった。
彼は一抱えもある果物と品の良い一輪の花を持って部屋に入ってきた。
「車を飛ばしてきたよ。これ、外が恋しくなるだろうからね」
私の鼻先へ花を差し出す少し気障な仕草も彼ならば許せてしまうのは不思議だった。
彼の指先でたおやかに揺れる花を受け取ろうと伸ばした手を掴んで、彼は不意に私を抱きしめた。
コロンの甘い香りが私の鼻先をかすめる。
「結婚して欲しい」
突然の彼の言葉に驚かなかったと言えば嘘になる。しかし心の底で、いつかこうなることを予測していたのだろう。
甘い香りに身を委ねて、私は必要以上にあっさりと彼の申し出を受け入れた。

先日まではその資格は無いと考えて、断る理由を探していたにも関わらず、いざ、現実として我身に迫った時、私は考えることを放棄して大きな流れに身を任せることにしたのだ。
将来への希望を言葉巧みに語る彼の傍らで、私は不謹慎にも母が聞いたら跳びあがって喜ぶであろう、なんてことを想像していたのだった。

風が窓ガラスを叩く。
木は木枯らしに負けてほとんどの葉を落としていた。
そんな木をわずかに飾っていたヒバリもこちらの視線に勘付いてどこかへ飛び去って行った。
窓外の一つの景色と化した彼は小躍りするような軽い足取りで門の外へ出てゆく。

布団を出ていた時間が長かったためか、私は少し寒気を感じた。
母が剥いてくれたリンゴを一切れだけ食べると、布団の奥に潜り込んだ。
そして、私は顔まで布団で覆って咳き込む音を聞かれまいとした。

この乾いた咳は数ヶ月続いていた。
人前では極力抑えるようにしていても、胸が痛んでとても我慢しきれない時も多くなってきていた。
おそらく心因性のものだろうと自身に言い聞かせて、私は布団の中から手だけを伸ばしてもう一切れリンゴを齧った。

私が婚約のことを母に伝えたのは翌日の昼になってからだった。

◆◆◆  1992年〜秋〜

「ねえ、また星を見に行きましょうよ」
私は何気ない口調で彼に言った。
「でも最近、夜は冷えるよ」
彼は調べものをするために開いた本から顔を上げてこちらを見た。
本を読むときや、仕事をする時にだけかける縁の細い眼鏡が、細面の彼の輪郭に違和感なく収まっていた。
「だけどまた見たいの。寒い時期の方が空気が澄んで星が良く見えるって言うでしょ?」
ふっと笑いながら彼が言う。
「君のわがままには困ったものだ」
「母にもよく言われたわ」

私が窓を開け放つとにわかに夜の冷気が部屋の中に撹拌する。
風に吹かれたカーテンが艶めかしく波打つ。
頭上を覆う天幕にぽっかりと穴が開いたかのように明るい月が輝いて、しきりに相手を求める虫たちの声が森のそこここから聞こえた。
愛を求める虫たちの声を聞きながら私は小さく呟く。
「これが最後かもしれないから」
私が発した言葉は森の中を当て所無く彷徨って、やがて誰にも受け取られることなく消えていった。

彼は読むことを一度は中断していた本を再び手に取って、しげしげと眺めていた。
「じゃあ、今度の新月の晩にしようか。もちろん晴れていない場合は中止だよ」
「それでいいわ。半月後ね……楽しみだわ」

彼が立ち上がってこちらに歩いてくる。
「風が心地良いね」
そう言って彼は窓の桟に手を掛けて私の隣に立った。
私は彼の横顔を見つめる。
彼は痩せていて少し頬骨が尖っている。
あまり寝ていないのか、目の下にはいつも隈が出来ていた。
私がベッドから起き上がる頃に彼は既に朝食の準備を済ませていることがほとんどだし、私が寝る直前まで、彼は工房で作業をしていたり、読書をしていたりする。

「今日はあなたも早めに休んだ方がいいんじゃない? なんだか疲れているように見えるわ。もう寝室に行きましょう」
私は窓を閉めて彼を促した。
「じゃあ、今日は君の言う通りにするとしよう」
彼は机上に置いた本を取り上げると、ゆっくりとした足取りで寝室の方へと歩いて行った。

*** 1990年〜冬〜

机の上に置かれたキャンドルの炎が一瞬大きく揺らめいた。
「この前の話、正式に親に話そうと思っているんだ」
行きつけのレストランで唐突に発せられた彼の言葉に私は思わず咽せた。
おそらく彼にはそう見えただろう。
咳をしながら、私は白いハンカチで口元を抑えた。「大丈夫かい。それでどう思う?」
「もちろん素敵なことだと思うわ」
私は口を抑えていたハンカチをテーブルの下に隠しながら言った。
「今度、両家の親族を僕の家に招いて食事をしようと思うんだけど、君のお母さまの都合がいい日はわかる?」
「どうかしら、聞いてみないとわからない。それに何だか恥ずかしいわ」
彼のことは良い人だと思うし、彼の気持ちも嬉しいけれど、何もかもが急過ぎて、ノロマな私には自分のこととして捉えることが出来なかった。
「母さんもまた君に会いたいって言ってるんだ。恥ずかしいのなんてすぐに慣れるさ」

彼は今後の計画を次々に話すと私に承諾を求めた。
きっと私に考える権利なんて存在しないのだろう。
父が亡くなってから懸命に育ててくれた母の為にも、家柄の差を越えて私を愛してくれる彼の為にも……

家まで送ると言ってくれた彼の言葉を丁寧に辞去して私は家路についた。
乾いた冷たい風と歩道を埋め尽くす落ち葉を踏む度に立てる音は、私の困惑と同時に火照った気持ちを落ち着かせる一助となった。
母にも言えない不安を抱えたまま私は麗しい将来への第一歩を踏み出そうとしていた。

上着のポケットにひっそりと仕舞われた白いハンカチには乾いた赤黒い染みが残っていた。

◆◆◆  1992年〜秋〜

「どうだい、美しいだろう」
工房から戻ってくるなり彼は、自身の手で修復された精巧なドールを私の前に掲げて得意気な声で言った。
ドールの頭部に付けられた銀色の長髪は実際の人毛であると彼は以前説明していた。

「まるで生きているみたい」
私は眼前のドールの額にかかる髪を撫ぜる。
それはやはり生きた人間とは違った独特の手触りを持っているし、近寄せてみればゴムのような無機質な匂いがする。
その重量は見た目よりも遥かに重く、人間の赤ん坊を抱きかかえているような、密度の濃さを感じた。

そして実際に彼はそのドールを我が子のように愛でた。
「愛情を持って接すれば、この子も愛情を返してくれる」
彼は私に言ったのか、独り言であるのか判別出来ぬような調子で言った。

広大な邸の中には幾つかのドールが置かれていた。あるものは椅子に座り、あるものはガラスケースの中でポーズを取り、またあるものは天井から糸で吊られていた。
ふとした拍子には、その人間のような存在感にはっとさせられることもある。
しかし、初めは気味悪く感じた彼の趣味も、今では美しく感じられるようになっていた。

そして、心血を注いでドールを作り上げる彼の姿を見るたび、私はその真剣な眼差しや繊細な手つきに魅力を感じずにはいられなかった。
そして密かにこんなことを思ったりもするのである。
彼は形として愛を残す方法を知っているのではないだろうか。

寝室のガラスケースの中で保存されているドールを思い出す。
彼は寝る前に必ずそのドールに話し掛けた。
おやすみ、というような簡単な挨拶の時もあれば、美しいとポツリ呟くこともある。
そして、その目には私を愛する時と同様の輝きが込められていることにある時気が付いた。
その時、私は希望を見付けたように思った。
永遠は確かに存在するのだろうと……

*** 1990年〜冬〜

「お母さま、ごめんなさい」
ベッドの横に置かれた椅子に座って両手で顔を覆っている母に私は声を掛けた。

私の言葉にはいくつかの意味が込められていたが、母はそのどれにも答えなかった。
ただ小刻みに身体を揺らして現実から我が身を遠ざけようとしているようだった。

念入りに消毒されたであろう病室のリネンは予定調和の匂いを放ち、私を落ち着かなくさせる。
カーテンのみで仕切られた隣のベッドから唸るような声が絶え間なく私の耳を犯した。
六人部屋の一番奥のベッドであったおかげでベッドの上で上半身を起こすだけで窓外の景色が臨めたが、等間隔に植えられた樹木と、噴水を止められて、ただの水溜まりに等しい人口の池では私の心の慰めとはならなかった。

桟にはコップに生けられた一輪の花が、本来持っていた鮮やかな色とはまるで違う、くすんだ黄色の花びらを力無くその身に連ねている。
窓ガラスに反射する母の姿は、その花と同じように萎れて見えた。

三日前、私の婚約は破談した。
……君と一緒に生きる人は他にいると思う……

私の病がもう完治する見込みがない段階まで進行していることを知ると、彼はまるで理解することの出来ない不可思議な言葉を残して私の元を去った。
しかし私は彼のことを責める気にはなれなかった。
初めから幸せになるような資格などなかった私が、ただ彼のことを騙していただけなのだ。
先に裏切っていたのは私なのだと自分に言い聞かせた。

「この街ではなくてどこか綺麗な所で暮らしたいわ」
寂しい景色を眺めながら私は言う。
母はまた私の言葉には答えなかった。

二十二歳まで手塩に掛けて育てた娘の婚約が破談になった時の気持ちを娘の私がうかがい知ることは出来ない。
人生が一転すると思われた幸福な数日間を過ごした後に、突如として人生のどん底に突き落とされる気持ちも私にはわからない。
そんなことを考えながら、一体どちらが病人なのかわからないほどに憔悴しきった母の様子に私は憐憫さえも覚えた。

気が付くと窓の外にはチラチラと雪が舞っていた。今年最初で最後の雪だった。

◆◆◆  1992年〜秋〜

「彼は嫁を貰うことが会社を継ぐ条件だったみたいなの。私のように子供を産むことの出来ない女と一緒になるなんて考えられなかったのでしょうね」
彼は作業机の上に頬杖をついたまま黙って聞いていた。
着古したカーキ色のセーターは袖が綻びている。
「気分の悪い話だったかしら。もう過ぎたことよ……ほんのわずかな時間であってもこうしてあなたと過ごすことが出来て、私幸せなのよ」

胸の中を開いて見せるような飾り気のない言葉で私は彼に思いを伝えた。
彼は私の言葉に穏やかな微笑で答えた。
私はそっと彼の唇に指先で触れる。
彼は自身の口を封じていた呪縛がようやく解けたとでもいうように小さな声で囁いた。

「……あの曲を聞かせて……」
言い終わると彼は作業机に置かれたドールを赤いベルベットで丁寧に磨き始めた。

私は隣室に移動し、姿勢を正してピアノと向き合う。

第一音が響く…… 続く第二音……
やがて私と彼の前に美しい川が流れる。

「私はあなたよりも少しだけ先にこの川の向こうへ行く。でも不思議と今は恐くないの。あなたと一緒に過ごして永遠の存在を感じるようになったから」

先日彼が修理を終えたドールが棚の上からこちらを見つめていた。
深い緑色の瞳が川を流れる水を想起させた。

モルダウ川は彼我をより深い所へと誘う……

第三章


◆◆◆  1992年〜冬〜

病床に横たわる彼女を見ると、私の心中は非常に複雑なものとなった。
もちろん、心の大部分は悲嘆に占められていたのだが、あるどこか一部分では奇妙な恍惚を覚えていた。
私はこの恍惚が何に由来するものなのか、暗に自覚していた。
それというのも、実はこの感覚は初めてのものではなかったからだ。

恐らくもう長くはない……
彼女の周囲を取り巻く黒い靄のような漠然とした予感が、その美しさを清冽に際立たせていた。

冬の風が乱暴に窓ガラスを叩く。
私は彼女の肩に優しく触れる。
彼女は苦しそうに自身の手を重ね合わせることでそれに応じた。
荒い呼吸を繰り返す彼女の横で、私の呼吸はゆっくりとより深く潜行してゆく。

「これからもあなたはこの邸に暮らすの?」
息を切らせながら彼女が言葉を発した。
「ああ。養父が残してくれた家だからね」
「そう、私もずっとここにいていい?」
懇願するような瞳で彼女は私を見た。
「当たり前じゃないか。君はいつまでもここにいて僕と一緒に暮らすんだ」
「ありがとう、でも私、すごく恐いの。もうあなたと会えなくなって、一人になってしまうかもしれないから」
「そんなことはない、大丈夫だよ。おとぎ話をしてあげよう。きっと君の聞きたい物語だ」

目の端に映り込んだガラスケースに私は密かに意識を集中させた。
ガラスケースの中で息を殺して佇む人形は緻密そのもので、まるで本物のような質感をたたえてそこに静止している。
ケースの中で沈黙を貫く人形の、真っ黒な髪にスタンドライトの柔らかな明かりが反射してつややかに輝いていた。
……これは彼女の一部だ。

●●●  1972年〜春〜

望まれて生まれてきたわけではなかった私は、生まれて早々に両親から捨てられたため、本当の親の顔を知らずに育った。
私を育ててくれたのは田舎の町で人形職人として生活していた養父だった。
養父がどのようにして生計を立てていたのかはわからないが、人形職人が儲かっていたとは思えなかったので、親の遺産でも相続したのではないかと思う。

私は義務教育を終えると、高校に進学することもなく、養父の下で人形職人の見習いになった。
人付き合いが苦手で、高校に進学したとしても友人を持てないだろうと思ったからだ。

瞳の色や髪の色が周囲とは違うことを理由に中学校でからかわれた時、養父は、恐らく私の実の父親か母親、あるいは祖父か祖母が日本人ではないのだろうと言っていた。
その言葉を聞いてから私自身も、何とはなしにそう信じるようになっていった。

私が工房で修行を始めて二年が過ぎた頃、養父が急な病に倒れて亡くなった。
私以外に親類のいなかった養父から、工房と邸と多額の遺産を相続したものの、天涯孤独の身となった私は頼れる友人もなく途方に暮れていた。

私が彼女と出会ったのはそんな折だった。
緩やかな丘陵の上に彼女が通う高校がある。
地方の公立高校にありがちな学力も揃わぬ雑然とした雰囲気の中で、彼女は他の誰よりも私の目を引いた。
この田舎にそぐわぬ、一種独特の雰囲気を持っていた。

彼女は私の仕事場に面した坂道をいつも確かな足取りで登ってゆく。
スカートの裾からのぞく脚はスラリと健康的に伸びて、歩調に合わせて揺れる黒髪が殊更美しかった。
この時から私は彼女に思いを寄せていたのだろう。
しかし、一方で彼女が他の男に思いを寄せているであろうことも気が付いていた。

ある日の暮れ方、夕日に照らされた坂道に二つの陰が長く伸びていた。
片方はすぐに彼女の影だとわかった。
恋人というには少しぎこちないが、ただの友だちとも違った距離感。
工房の窓から毎日彼女を見つめていた私には一目でそれが理解出来た。
胸に走る鈍痛は初めての感覚であった。
一つ大きなため息を吐くと、私は手近な人形を一つ取り上げて作業に戻った。

○○○  1972年〜春〜

高校生活は私が想像していたよりもはるかに活気のあるものだった。
中学生の頃よりも高いレベルで活動する陸上部は刺激的であったし、まだ不明瞭ではあるが、淡い恋心もまた私の高校生活に一つの花を添えた。
部活動の終りに駅までのわずかな距離を彼と一緒に歩く、そんな些細なことに喜びを見出していた。

父の転勤を機に地方への引っ越しが決まった時には多少の反発も覚えたが、そよそよと吹く風は柔らかく、私は次第にこの土地に愛着を抱くようになった。
都会よりも格段に緩やかな時間の流れの中にゆっくりと呑みこまれるように私はここでの暮らしに溺れていった。
そこには陶酔や自惚れといった感情も確かに存在していたように思う。
何もかもが自分の思い描いた通りに進んでゆくような、そんな幼稚な幻想を抱かせるほどに……

●●●  1972年〜春〜

何か行動を起こさなければ変化は得られない。
私は彼女に認識してもらうために、毎朝彼女の登校時間に合わせて工房の外に出た。
自分自身、気味の悪い行動だと理解しつつも他に妙案は浮かばなかった。

怪しまれないよう適当な距離を保って、私は彼女に近付く機会を窺った。
日々の積み重ねは次第に功を奏していった。
目が合えば軽い会釈を交わし、徐々にではあるが、彼女も私の存在を受け入れ始めたように思えた。
しかし、同様に彼女と以前から見かける男との関係も順調に進展しているように見えた。

登校時よりも歩調を緩め、明らかに時間を掛けて坂道を下ってゆく二人の姿が視界に入る度に、私の胸はきつく締めつけられた。
彼女の世界の中に私の居場所は極めて少ない。
せめてもう少し、あと少し……
彼女の身体に残る痣となりたかった。

そんな憤懣を抱えたまま一月以上が過ぎた。
私が彼女の変化に気が付いたのは、じき本格的な夏を迎える六月の末のことだった。

○○○  1972年〜春〜

今日もまた部活に参加する気持ちにはなれなかった。
右脚に抱えた違和感のせいでしっかりとした走りが出来そうになかったから。
そして、そんなみっともない姿を先輩に見られたくなかったから。

昇降口へ向かう階段がいつもよりも長く感じられた。
私の横を駆け抜けてゆく友人にほのかな嫉妬さえ覚えた。
つい数週間前まで思い描くことが出来ていた明るい未来が、今は想像出来ない。
少し足が痛いだけで……

私はどうしようもなく弱い自分に嫌気が差した。
彼が私に声を掛けたのはそんな折だった。
「どうしたの? 元気がないね」
不意に掛けられた言葉に私は一瞬たじろいだ。

通学途中によく見かける人形工房の青年だった。
年の頃は私たちと同じか少し上程度に見えるが定かではなかった。
彼は頼りなげな表情を携えて私の方を見ていた。
「いえ、別に……」
話したこともない相手だ。まともに会話する必要もないと思った私は歩みを止めることなく男の横を通り過ぎた。

「脚が痛いの?」
背後から男の言葉が追いかけてきた。
図星を突かれた私はつい足を止めてしまった。
なるべく素振りには出さないように注意をしていたのにどうして気付かれたのだろうか。
「何故?」
私は努めて冷静に、振り返ることなく言った。
「いや、なんとなく様子がおかしいように思ったから」
男の要領を得ない答えに私は少し苛立った。
「あなたには関係ないわ」
歩き出そうとする私に男が再び言葉を投げる。
「脚が痛いことは否定しないんだね」
「そうよ。だから何?」
私は語気を強めて振り返る。
彼は相変わらず頼りなげな、捨てられた仔犬のような表情で私を見つめた。

正面から見ると彼の瞳は淡い茶色をしていることがわかった。
陽に照らされた髪も同級生の男子生徒と比較すると色素が薄いように思われた。
「走れない……走れないから落ち込んでいるんだね」
私は次の言葉を考えて、彼は私の言葉待って、場には重い沈黙が横たわった。
「休日に君が陸上のジャージを着ていたのを見たから」
男が言い訳がましく言った言葉になるほど合点がいった。
こんなに小さな町だ、どこで誰に見られていても不思議はなかった。

「そうね……そうかもしれないわ」
私は彼の推測を肯定した。
すると、彼は僅かに逡巡する様子を見せてからおずおずと切り出した。
「……人形を見ていかないかい?」

●●●  1972年〜春〜

彼女の表情があまりにも悲しげで、考える余裕もなく声を掛けてしまったことを私は今更、後悔していた。
きっと失礼な私の振る舞いに彼女は腹を立てていることだろう。
事実、彼女の顔にあの男に見せるような瑞々しい笑顔はない。
むっつりと黙ったまま、工房に飾られた人形たちを眺める彼女の横顔を見ながら、私はそんな悲観的な想像をしていた。

工房内の空気を循環させるために働く扇風機の風が、普段ならばおがくずの匂いで満たされている室内に、ほのかに漂う彼女の甘美な香りを浸透させた。

ほっそりと締まったあの美しい脚に不具が生じているなどとは私には到底信じられなかった。

彼女は私が最も気に入っている人形の前で立ち止まると、左右から覗き込むようにしてしげしげと眺めていた。

「気に入ったかい?」
「ええ、まあ」
淡泊な返事ではあったが、先程までよりは幾分表情が柔らかく見えた。
「それはもともとかなり古い人形らしいんだ。部品を取り換えて少しずつ修理して、この前完成したばかりなんだ」
ヴィクトリアンドレスを纏ったその人形はアンティークドールにありがちなおかしな頭身ではなく、人間のそれに近かった。
「素敵ね。何もかも完璧な姿に思えるわ。綺麗な人をお人形さんに喩える理由がよくわかるわね」
そう言ってようやく彼女は相好を崩した。
「本当はね、脚だってものすごく痛いわけではないの。ただ少し違和感があるだけ。これまでいろいろなことが上手くいき過ぎていたから、ちょっとしたことでも失敗や挫折に臆病になっているのね。きっと」

彼女は少し迷いが減ったように爽やかな表情で言った。
私もそんな彼女の目を見て頷く。
「早く治してまた走れるようにならないとね」
「ええ、いつまでもウジウジ悩んでいても仕方ないわね」
これが余計な助言であることは自分でも気付いていたが、言わずにはいられなかった。
怪我が治れば、彼女はまた部活に参加し、あの男と親密になってゆくのだろう。
そうなればそれこそ自分が入り込む隙なんてなくなってしまうのではないだろうか。

駅へと続く坂道を下ってゆく彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、私は工房の前の歩道に立っていた。
工房に戻って、机の上に置かれた紅茶を一口含むと、数時間前に煮出されたアールグレイは冷えて苦味が増していた。

○○○  1972年〜春〜

「どうして。どうして私ばっかりこんなことになるの」
私は言葉を抑えることが出来なかった。
考えは何度も同じ所を巡り、もうすでに進むことも戻ることも出来ないように思われた。
現実を受け入れまいと、どんなにもがこうとも絶望は私の前に立ち塞がって微動だにしなかった。

雨粒が私の部屋の窓を容赦なく叩き続ける。
一向に明ける気配の無い長梅雨は私の心を象徴するかのようだった。

先日、工房の彼と話をして僅かに勇気を得た私は、右脚の違和感を診察してもらうために病院へと出向いた。
「簡単な検査をしましょう」
穏やかな口調でそう言った医師の表情は僅かばかりの険しさを含んでいるように私には見えた。
検査結果を確認して戻ってきた医師は最初に私ではなく、付き添いに来ていた母を呼んだ。

診察室から出てきた母を見た時、私は血の気が引くと言う言葉の本当の意味を悟ったように思った。
土気色した母は私と目が合うと、すぐに目を伏せた。
「こっちに来なさい」
伏せた目を上げることなく、か細い声で母は私を呼んだ。
私はその言葉に従って、母の後ろに付いて診察室の中へ入った。

そこからのことはあまり正確に覚えていない。
世界の全てがモノクロの無声映画のように感じられた。
医師もいかにも深刻そうな演技をする俳優のように思えたし、隣で泣き崩れる母の声は一切耳に入って来なかった。

ただ一言だけがはっきりと私の鼓膜を震わせた
「転移の速い病気なので、右脚は膝上まで切断を余儀なくされるかもしれません」
医師は感情の宿らぬ瞳ではっきりと私に告げた。

窓を打つ雨音を、いや、外界の全てを避けるようにして、潜り込んだ布団の中で私は自身の運命を呪った。
一月前までは新しい環境で、鮮やかな夢や希望を抱いていたというのに。
見えない所から私に迫っていた病は、私の夢も希望も、人生さえも根こそぎ奪っていくように思えた。
涙もいつか枯れるとどこかで聞いたように思ったが、私の目から溢れ出る涙はいつまでたっても枯れることはなかった。

●●●  1972年〜夏〜

彼女が通う高校が夏休みを迎える数日前からパタリと彼女の姿は見えなくなった。
彼女がこの工房に来て、人形を見て行ったあの日以来、私と彼女は少しずつ言葉を交わすようになっていた。
彼女の姿が見えなくなったのはその矢先の事だった。

工房の窓から臨める世界。
雲が隙間なく空を覆い、長雨が景色を滲ませる。
窓ガラスを舐めるように流れた水滴がガラス面に反射した私の頬をなぞる。

数日間続いた鬱々とした感情を抑えることが出来なくなった私は意を決して、家路を急ぐあの男に彼女の様子を尋ねた。
話してみると、彼女が惚れるこの好青年は、もし私が高校に通っていたならば同級生に相当することがわかった。

彼も詳しい事情は聞いていないが、彼女は体調が悪く学校に来ることが出来ないこと、それから大変ふさぎ込んでしまっていることなどを隠さずに語ってくれた。
男の話を聞いても私にはどうすることも出来なかった。

男に礼を述べて、私はやるせない思いに包まれた。
それでも、もう一度彼女に会いたかった。
このまま終わりにすることは出来ない、会わなければいけないと思ったのだ。

その日、雨は休みなく工房の窓を叩き続けた。

結局夏休みに入るまで彼女は一度も姿を見せなかった。

○○○  1972年〜夏〜

夏休みの初めに私は高校を退学した。
母は私を励ますために度々外出に誘ったが、私は毎度それを断った。
車椅子に乗っている姿を人に見られることに耐えられそうもなかったからだ。

先輩は私が退学してからも幾度か家を訪ねてきてくれたが、とても顔を合わせる気にはなれなかった。

いつの間にか、私は自室の窓から外を眺めることが日課になった。
二階の私の部屋は大通りの往来を見下ろすことが出来た。稀に通る知人の姿を認めると、私は胸が苦しくなった。
もう往来を見るのはやめよう。
もう見たくない。
そう思っても数日経てばまた窓外の景色に魅せられてしまうのだった。

今日もまたいつも通り、意味もなく窓外を眺めた。
私の部屋を見つめたまま往来に立ち尽くす一つの影。
人形工房の彼だった。
私は彼と目が合うと反射的に身を隠した。
窓枠の下で私は息を殺す。
数分の後、私は恐る恐る窓外を見た。
彼はまだそこに立っていた。
あの時と同じように頼りなげな表情を浮かべて。

どうしてそこにいるの? 
何故だかわからないけれど、彼の頼りない表情は私を安心させた。

いるはずのない人物がそこにいて、不安定な気持ちを支えてくれるような期待を抱かせるわけでもないのに。
それは身を寄せるべき大樹ではなく、親の不在を嘆き合う雛のような心境だった。
互いに支え合わねば倒れてしまうような、互いの不安定さを拠り所とした安心感。
あまりに不毛で、あまりに居心地の良い堕落……

●●●  1972年〜夏〜

「人があまりいない場所が良いわ」
 彼女はほとんど顔を上げることなく言った。
「それなら河川敷に行こう。犬の散歩をする人くらいしか通らないだろうし」

毎日のように彼女の家に通ってようやく外へ連れ出すことに成功した。
彼女の不具を意識しながらも私は有頂天だった。

私はそっと車椅子を押した。
彼女が顔を隠すために被っていた大きな麦藁帽からこぼれる黒い長髪が、湿気を含んだ夏の風に吹かれて車椅子を押す私の手をくすぐる。
その髪は病のためか些かツヤを失って見えた。

人目を避けて、極力狭い道を通りながら私たちはようやく川の近くまで来た。
幸いスロープ状の道が存在したため、苦労することなく河原に降りることが出来た。
彼女の座る車椅子を、夏の強い日差しに直接さらされることのない下生えの上に停め、そのすぐ脇に私は腰を下ろした。
「私、東京から来たのよ。この川が流れ着く先……」

彼女は川面を見つめたまま言った。
彼女が見つめる先にある水面に乱反射する陽光は何にも縛られることなく自由にきらめいているように見えた。
「最初はこんな田舎に来たくなかった。でも慣れたらいいものだって思えた。むしろ、何もかもが思い通りになるような気さえしてたのよ」

彼女の瞳には涙がたまっていた。
私は彼女にかけるにふさわしい言葉を見付け出すことが出来なかった。
私は彼女の言葉に無力に頷くだけだった。
その時、川から視線を逸らさずにいた彼女の頬に涙が伝った。
「綺麗だね」

卑怯な私はあえて主語を省略した。
どちらとも受け取ることが出来るように。
いや、実際にどちらの意味も含んでいた。
「そうだね。ちょっと前までは私もあんな風にキラキラした未来を想像していたのに」
彼女は震えた声で答えた。
私は彼女に残された脚を盗み見た。
私の顔からわずか数十センチの距離で、細い足首が所在なさげに孤立していた。

「もうこのまま誰にも会わずに一人で暮らしたい。時々そう考えることがあるの」
思い詰めた表情だった。
もう一度彼女の姿を見て私は密かにそれに納得する。

太陽は能天気に陽光を放って輝いている。
彼女の眼前に屹立する絶望などまるで意に介さないといった風情で……

「あの山の向こうに打ち捨てられた邸があるんだ。家主が死んでしまって、今では無人になっているんだけど、素敵な洋館だよ。今度そこに行こう」
私は川を隔てて向こう岸に見える山を顎で示しながら言った。
自分の家だと告げれば彼女が気後れするだろうと思い、私は咄嗟に嘘を吐いた。
「誰もいない洋館なんて素敵ね。ぜひ行ってみたいわ。でも、この脚じゃ…… 山は無理ね」
「大丈夫。僕が手伝うよ」
そう言って私は、すぐ横に生えていた笹から葉をむしった。
一つの小さな舟をこさえて彼女の眼前に掲げる。
「さあ、願い事をして」
彼女は瞳をこすって頷いた。
私は少し間を置いてから川のそばへ寄ると、笹舟が転覆しないように用心しながらそっと川へ流した。
「きっと願いは叶うから…… 帰ろうか」
私の言葉に彼女は苦しそうに笑顔を作るとそれきり言葉を発することはなかった。

はたして彼女に願いなんてあったのだろうか。
絶望の中で希望など浮かんで来なかったかもしれない。
それでも私は、自分がこっそりと笹舟に込めた願いが彼女のためになるであろうと盲信した。

彼女は麦藁帽を目深に被って顔を伏せている。
その後ろで私は黙って西日へ向かって車椅子を押した。

その夏一番の猛暑日だった。

○○○  1972年〜夏〜

あの日以来、彼が私の家を訪ねてくる回数はめっきり減った。
きっと私の姿を見て幻滅したのだろう。
支えを失ったような、半身を奪われたような不思議な喪失感を感じた。
……彼は私を見捨てた。
やがてそんな思いが心を占めた。
傷付いた私はずるかった。
その喪失感を埋めるために、先輩の優しさに甘えた。
部屋の中で他愛もない言葉を交わし合うだけ。
核心を避け続ける会話。
その会話の間中、先輩は私の脚から必死に目を逸らしていた。
縮まることのない距離と残酷な程の遠慮が今の私には心地良かった。

簡単なことだった。私が一歩近付けば、先輩は一歩下がる。
彼の譲歩に縋って私はどこまでも侵蝕し、依存した。
そうして、胸に空いた穴を埋める仕事を私は他人に押し付けた。

●●●  1972年〜夏〜

私は笹舟に込めた願いを実現させるため、それこそ寝食を惜しんで勉強した。
彼女の苦しそうな笑顔はそれほどまでに私の心を強く揺さぶったのだ。
一緒に山の向こうへ行こう。
そう伝えてあげたかった。
ただ、今のままでは言ってあげられない。それが悔しかった。

昼夜が逆転し、曜日の感覚は麻痺した。
何日が経過したのかも、いつ最後に食事を摂ったのかもわからない。
同じ日が何度も廻っているような錯覚さえも覚える中で、私は確かに前進していた。
もう少し、あと少し……

鏡を見る。隈に囲まれた、目だけがやたらに鋭い男がそこにいた。
自分の顔にまるで見覚えがなかった。

脳裡に鮮明に浮かぶものは彼女の残された左脚だけ。
その左脚を脳内で反転する。
疲労で感覚の鈍った掌に濃密な重量を感じる。
いつの間にか閉じられていた瞳をゆっくりと開く。
私の手には確かに彼女の一部が存在した。
指先で肌触りを確かめると、宝物でも扱うように丁寧にそれを布にくるんだ。

工房の窓から見上げた月は紅く輝いていた。

○○○  1972年〜夏〜

真夜中、私の部屋の窓が奏でる人工的なリズム。
三ヶ月近く音沙汰のなかった彼が突然私の前に現れたのは十一月の半ばのことだった。

半袖シャツに作業用のズボンを履いた出で立ちはまるで季節感に欠けていた。
顔はやつれ、くぼんだ眼窩は三ヶ月前とは別人のようだった。
「さあ、山の向こうへ行こう」
真夜中だというのに、まるで周囲を気にしていないかのような大声で彼が通りから叫ぶ。
彼の声は初めて言葉を発したかのような、奇妙にかすれた声だった。
また、その言葉は私の耳に届いたものの、その真意が脳にまで達することはなかった。
「こんな夜中に何を言っているのよ」
私は声を抑えて彼に言う。
「大丈夫、行こう」
彼は再び、あの頼りなげな表情を見せた。
その表情だけは以前と変わらぬもので私はそれを無条件に信頼してしまっていた。

私は両親に気取られないよう、片足で慎重に通りへ出た。
通りに立った私を彼は突然抱き上げると木陰へと運んだ。
見た目よりも力強い腕だった。
「これを……」
彼の取り出したものを見て、私は大きく目を見開いた。

●●●  1972年〜夏〜

彼女は驚いたようだった。
しかし、私は彼女が抵抗するふうでもないのを見て取ると、彼女のズボンを脱がせた。

左右不揃いな彼女の白い太ももに触れ、ゆっくりと丁寧に、愛撫するように義足を取り付けた。
「作ったんだ。時間が掛かってごめんよ」
彼女は言葉を発することなく、自身の新たな右脚をさすった。
見立て通り、彼女の左脚とぴったり長さが揃っているようで安心した。
「立てる? 行こう」
私は手を差し出した。
彼女は私の手を支えにして立ち上がる。

「少し痛いわ」
当然関節など存在しない義足は、彼女の歩行の手助けにはなるが、だからといって完全な脚の代わりとはなり得なかった。
それでも彼女は必至に歩いた。
何かに取り憑かれたように一心に前を見つめて山道を進んでゆく。
「平気? 手を貸そうか?」
「大丈夫よ。自力で歩きたいの」
彼女は喘ぎ喘ぎ言った。
しかし、その言葉には強い意志を感じた。

夜の森は二人を包んで静かに揺れている。
足元を照らす懐中電灯の明かりと、木々の間から差し込む紅い月光を頼りに私は彼女を導いた。
「もう少しだ」
踏み均された道の上を木々が覆い、自然のトンネルを作り出していた。
トンネルを抜けると視界が大きく拓けた。

○○○  1972年〜夏〜

眼前の洋館は長く人が住んでいないとは思えない程、整然としていた。
タイル張りの荘厳な造りは邸と呼ぶにふさわしかった。
「さあ、中へ。入って」
そう言って彼は私を中へと促した。

私の左脚に玄関に敷かれた赤い絨毯の柔らかな感触が伝わる。
不意に彼は後ろから私を抱きすくめた。
首すじに触れた彼の手がくすぐったかった。
「ここで一緒に暮らそう」
彼の言葉に私は顔だけ振り返った。
彼の唇がそっと私の耳を這う。
右手で私の新たな脚に触れる。
彼は小さく呟いた。
「君は美しい」

もうすぐ夜が明ける。
森は粛々と二人を迎え入れた。

◆◆◆  1992年〜冬〜

「あなたの瞳の色が魅力的な理由、初めて聞いたわ。それで彼女はどうなったの?」
彼女の口から発せられた言葉は力無く私の耳まで届いた。
私は彼女の手を強く握りながら質問に答えた。
「そこにいるよ」
ガラスケースの中に視線を送る。

真っ黒なロングヘアーと、スラリと伸びた美しい脚を持つそのドールは、先程と変わらぬ格好で虚ろな瞳をこちらに向けている。
少しだけ頭を持ち上げてガラスケースの方に視線を向けると彼女は穏やかな表情を作った。
「後日、転移が見付かったんだ。どうすることも出来なかった」
彼女は渇いた咳をするだけで私の言葉には答えない。
彼女の瞳は涙で滲んでいる。
苦しいのは身体なのか、心なのか……
私は優しく彼女の胸をさする。
「私の全てを愛している?」
彼女が尋ねた。
「もちろん」
私の言葉に対する、彼女の精一杯の笑顔は儚かった。
「それなら安心ね……お願い、あの曲を聞かせて」
苦しそうな彼女の表情がいつかの映像と重なり合う。
記憶がリフレインするような錯覚を覚えながら、私は彼女の言葉に従って腰を上げた。

彼女の額にかかる髪を左右に分けてベッドを離れると、ピアノの前に座り、モノクロの鍵盤で彼女の望む色を奏でた。

私はまだ川の途中……
彼女にはじき向こう岸が見えるだろう。
美しい姿のまま向こう岸へと歩んでゆく彼女。
私の求める答えがそこにあった。
眼前に存在していると、全ての物と調和して、その存在を忘れてしまう永遠の美しさが、目の前で最期の輝きを放つ。
この上なく完璧なものが私の目に焼き付いた。
そして私はそれに正しい形を与える。
永遠を留めるために……

忘れるという作業は私にとって実に容易で難しい。
 ……モルダウのメロディはまだ止まない。

ーエピローグー 2022年(後編)


パタン。
風の力であろうか。
書棚の一番端に置かれていた本が横倒しになった。
その音で私はふと現実に引き戻される。
「もう三十年になるのか。君たちと暮らし始めて」

いつの間にかピアノの自動演奏機能で再生されていたモルダウが止んでいた。
窓の外で笹の葉がサラサラと音を立てて揺れる。

まだ私が若かった頃、笹舟に幼い願いを託したことが不意に思い起こされる。
あの笹舟は、私の気持ちを一体どこまで運んでくれただろうか……
私は隣室の扉の方を振り返ってガラスケースの中に飾られ人形を見つめる。
「本当に君たちは何年経っても美しい」

正面へ向き直った私は、向かいの椅子に座る彼女を赤いベルベットで撫ぜる。
彼女は黒いワンピースからのぞく真っ白な手を西日に照らされていた。
鮮烈なオレンジ色の光が、室内に多くの影を作り、それによって生み出された軽妙なコントラストがただそこに在る彼女の存在を際立たせた。

私はまだ川の途中。
だが、もう向こう岸は見えている。
忘れ得ぬものを抱いて私は川を渡る。
そんな私の姿を見て、しゃれこうべがカラカラと渇いた音を立てて笑った。
その瞳の奥に暗き深淵をたたえて……

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