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【短編小説】ドライフラワー⑩(第三章)

第三章

◆◆◆
病床に横たわる彼女を見ると、私の心中は非常に複雑なものとなった。
もちろん、心の大部分は悲嘆に占められていたのだが、あるどこか一部分では奇妙な恍惚を覚えていた。
私はこの恍惚が何に由来するものなのか、暗に自覚していた。
それというのも、実はこの感覚は初めてのものではなかったからだ。

恐らくもう長くはない……
彼女の周囲を取り巻く黒い靄のような漠然とした予感が、その美しさを清冽に際立たせていた。

冬の風が乱暴に窓ガラスを叩く。
私は彼女の肩に優しく触れる。
彼女は苦しそうに自身の手を重ね合わせることでそれに応じた。
荒い呼吸を繰り返す彼女の横で、私の呼吸はゆっくりとより深く潜行してゆく。

「これからもあなたはこの邸に暮らすの?」
息を切らせながら彼女が言葉を発した。
「ああ。養父が残してくれた家だからね」
「そう、私もずっとここにいていい?」
懇願するような瞳で彼女は私を見た。
「当たり前じゃないか。君はいつまでもここにいて僕と一緒に暮らすんだ」
「ありがとう、でも私、すごく恐いの。もうあなたと会えなくなって、一人になってしまうかもしれないから」
「そんなことはない、大丈夫だよ。おとぎ話をしてあげよう。きっと君の聞きたい物語だ」

目の端に映り込んだガラスケースに私は密かに意識を集中させた。
ガラスケースの中で息を殺して佇む人形は緻密そのもので、まるで本物のような質感をたたえてそこに静止している。
ケースの中で沈黙を貫く人形の、真っ黒な髪にスタンドライトの柔らかな明かりが反射してつややかに輝いていた。
……これは彼女の一部だ。

●●●
望まれて生まれてきたわけではなかった私は、生まれて早々に両親から捨てられたため、本当の親の顔を知らずに育った。
私を育ててくれたのは田舎の町で人形職人として生活していた養父だった。
養父がどのようにして生計を立てていたのかはわからないが、人形職人が儲かっていたとは思えなかったので、親の遺産でも相続したのではないかと思う。

私は義務教育を終えると、高校に進学することもなく、養父の下で人形職人の見習いになった。
人付き合いが苦手で、高校に進学したとしても友人を持てないだろうと思ったからだ。

瞳の色や髪の色が周囲とは違うことを理由に中学校でからかわれた時、養父は、恐らく私の実の父親か母親、あるいは祖父か祖母が日本人ではないのだろうと言っていた。
その言葉を聞いてから私自身も、何とはなしにそう信じるようになっていった。

私が工房で修行を始めて二年が過ぎた頃、養父が急な病に倒れて亡くなった。
私以外に親類のいなかった養父から、工房と邸と多額の遺産を相続したものの、天涯孤独の身となった私は頼れる友人もなく途方に暮れていた。

私が彼女と出会ったのはそんな折だった。
緩やかな丘陵の上に彼女が通う高校がある。
地方の公立高校にありがちな学力も揃わぬ雑然とした雰囲気の中で、彼女は他の誰よりも私の目を引いた。
この田舎にそぐわぬ、一種独特の雰囲気を持っていた。

彼女は私の仕事場に面した坂道をいつも確かな足取りで登ってゆく。
スカートの裾からのぞく脚はスラリと健康的に伸びて、歩調に合わせて揺れる黒髪が殊更美しかった。
この時から私は彼女に思いを寄せていたのだろう。
しかし、一方で彼女が他の男に思いを寄せているであろうことも気が付いていた。

ある日の暮れ方、夕日に照らされた坂道に二つの陰が長く伸びていた。
片方はすぐに彼女の影だとわかった。
恋人というには少しぎこちないが、ただの友だちとも違った距離感。
工房の窓から毎日彼女を見つめていた私には一目でそれが理解出来た。
胸に走る鈍痛は初めての感覚であった。
一つ大きなため息を吐くと、私は手近な人形を一つ取り上げて作業に戻った。

○○○
高校生活は私が想像していたよりもはるかに活気のあるものだった。
中学生の頃よりも高いレベルで活動する陸上部は刺激的であったし、まだ不明瞭ではあるが、淡い恋心もまた私の高校生活に一つの花を添えた。
部活動の終りに駅までのわずかな距離を彼と一緒に歩く、そんな些細なことに喜びを見出していた。

父の転勤を機に地方への引っ越しが決まった時には多少の反発も覚えたが、そよそよと吹く風は柔らかく、私は次第にこの土地に愛着を抱くようになった。
都会よりも格段に緩やかな時間の流れの中にゆっくりと呑みこまれるように私はここでの暮らしに溺れていった。
そこには陶酔や自惚れといった感情も確かに存在していたように思う。
何もかもが自分の思い描いた通りに進んでゆくような、そんな幼稚な幻想を抱かせるほどに……

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