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【短編小説】ドライフラワー⑤(第二章)

第二章

***
「こんなに立派なレストランに連れて来て頂いて申し訳ないわ」
コーヒーカップをソーサーの上に置いて私は彼に向かって言った。
「別に構わないさ。だって来てみたかったんだろう?」
「ええ、それはもちろん。いつも外から眺めていて素敵な店構えだと思っていたから」
「それならいいじゃないか。……僕のデザートも食べるといい」
そう言って彼はデザートの乗った皿を私の方へ差し出した。ベリーソースや生クリームで鮮やかに装飾されたガトーショコラは真っ白な皿の上に品良く鎮座していた。
「ありがとう」
「僕に遠慮なんかしなくていいんだよ。君のわがままなんてかわいいものさ」
彼はゆったりとした所作で肉料理と一緒に提供された赤ワインの残りを口に含み、反対の手では羊革の手袋を指先で撫ぜている。

「でもあなたにはいつも迷惑をかけてばかりだわ」
私は様子を窺うように上目使いで彼を見た。
彼は普段のように穏やかな目で私を見つめ返した。
正面から見つめられると、気恥ずかしくなって私は少し視線を伏せ、足元の籠の中に置かれたマフラーのチェック柄を眺めて気を落ち着けた。
こうして一緒に食事をするのは何度目だったろうか、いつ会っても彼は紳士的な振る舞いで私を安心させた。
それに、縫製の良い紺色のスーツをスマートに着こなす彼は、何事においても優雅さを損なうことはなかった。
今回の食事にしても彼のマナーは評価されて然るべきものであったし、その育ちの良さをうかがわせるには充分なものと言えた。
そういう点において私が彼を拒絶するような理由はなかったし、また、彼のことを拒絶出来るような立場ではなかった。

「美味しかったわね」
隙の無い動作で食器を片付けるウェイターを横目に私は言った。
彼は軽くネクタイを整えながら私の言葉に頷いた。

◆◆◆
「さて、そろそろ行こうか」
すっと椅子を引いて席を立つと、彼は優しく私の手を引いた。
私は自身を導くその手をまじまじと見る。
神経質そうに見えるが滑らかなその指は私には美しく官能的に映った。
その繊細そうな手で彼は両開きの荘厳な扉を押し開けると、私を先に外へ出した。
「大丈夫?」
階段を下りる私の半歩手前を歩きながら彼は気遣いを忘れない。
出会ったころからずっと彼は気品と礼節を持って私に接してくれていた。
「ありがとう。平気よ」
彼の繊細な気遣いに対して、私は努めて気丈に振る舞った。
そうでもしないと自分の無力さを認めてしまうような気がして耐えられなかった。
せめて彼の前では一人の女性でいたかった。

「無理を出来る身体じゃないんだ。用心をしないと」
そう言った彼の表情は不安げながらも愛情に満ちているように思われた。
そんな彼の明るいブラウンの瞳を見つめて、私の頬は朱に染まっていただろうか。
「月が綺麗ね」
彼の瞳からわざと視線を逸らすように見上げた空に浮かんだ月を見ながら私は言った。
「本当だね。中秋の名月かな」
その姿を覆い隠すような雲も存在せず、涼やかな、月の明るい晩だった。
大きな満月の周囲に多くの星が見えた。
月の無い晩であればもっと多くの星が見えただろうと私は少し残念にも感じた。
夜空を眺めていると自ずと思い出される過去の思い出に浸りながら、私は彼の手をさっきよりも強く握った。

「ほら、早く車に乗って。身体が冷えるよ」
彼の手を握り、空を見上げたまま車の脇に立ち尽くしていた私は、彼の言葉に促されてゆっくりと車に乗り込んだ。

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