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【短編小説】ドライフラワー⑦(第二章)

***
「ごめんなさい。せっかく予定を立ててくれたのに急に体調が悪くなってしまって」
「気にすることないさ。テニスなんてまたいつだって行けるんだから」
電話越しに聞こえてくる彼の声は相変わらず穏やかなもので私を安心させた。
「お見舞いに行ってもいいかい」
「ダメよ。あなたにうつしてしまったら申し訳ないもの」
クスクスと彼の笑い声が聞こえる。
「たまには僕のわがままも聞いてくれよ。……会いたいんだ」
私が返答に窮しているうちに彼はそう言って電話を切った。

彼の強引さ、押し出しの強さは、決断力がなく引っ込み思案な私には都合が良かったと言えるかもしれない。
もしも彼が奥手な青年ならば二人の関係に進展はなかっただろう。

受話器を置いてから一時間も経たぬうちに彼は訪ねてきた。
階下では母が平生よりも一段高い声で彼を出迎えているのがわかった。
彼は一抱えもある果物と品の良い一輪の花を持って部屋に入ってきた。
「車を飛ばしてきたよ。これ、外が恋しくなるだろうからね」
私の鼻先へ花を差し出す少し気障な仕草も彼ならば許せてしまうのは不思議だった。
彼の指先でたおやかに揺れる花を受け取ろうと伸ばした手を掴んで、彼は不意に私を抱きしめた。
コロンの甘い香りが私の鼻先をかすめる。
「結婚して欲しい」
突然の彼の言葉に驚かなかったと言えば嘘になる。しかし心の底で、いつかこうなることを予測していたのだろう。
甘い香りに身を委ねて、私は必要以上にあっさりと彼の申し出を受け入れた。

先日まではその資格は無いと考えて、断る理由を探していたにも関わらず、いざ、現実として我身に迫った時、私は考えることを放棄して大きな流れに身を任せることにしたのだ。
将来への希望を言葉巧みに語る彼の傍らで、私は不謹慎にも母が聞いたら跳びあがって喜ぶであろう、なんてことを想像していたのだった。

風が窓ガラスを叩く。
木は木枯らしに負けてほとんどの葉を落としていた。
そんな木をわずかに飾っていたヒバリもこちらの視線に勘付いてどこかへ飛び去って行った。
窓外の一つの景色と化した彼は小躍りするような軽い足取りで門の外へ出てゆく。

布団を出ていた時間が長かったためか、私は少し寒気を感じた。
母が剥いてくれたリンゴを一切れだけ食べると、布団の奥に潜り込んだ。
そして、私は顔まで布団で覆って咳き込む音を聞かれまいとした。

この乾いた咳は数ヶ月続いていた。
人前では極力抑えるようにしていても、胸が痛んでとても我慢しきれない時も多くなってきていた。
おそらく心因性のものだろうと自身に言い聞かせて、私は布団の中から手だけを伸ばしてもう一切れリンゴを齧った。

私が婚約のことを母に伝えたのは翌日の昼になってからだった。

◆◆◆
「ねえ、また星を見に行きましょうよ」
私は何気ない口調で彼に言った。
「でも最近、夜は冷えるよ」
彼は調べものをするために開いた本から顔を上げてこちらを見た。
本を読むときや、仕事をする時にだけかける縁の細い眼鏡が、細面の彼の輪郭に違和感なく収まっていた。
「だけどまた見たいの。寒い時期の方が空気が澄んで星が良く見えるって言うでしょ?」
ふっと笑いながら彼が言う。
「君のわがままには困ったものだ」
「母にもよく言われたわ」

私が窓を開け放つとにわかに夜の冷気が部屋の中に撹拌する。
風に吹かれたカーテンが艶めかしく波打つ。
頭上を覆う天幕にぽっかりと穴が開いたかのように明るい月が輝いて、しきりに相手を求める虫たちの声が森のそこここから聞こえた。
愛を求める虫たちの声を聞きながら私は小さく呟く。
「これが最後かもしれないから」
私が発した言葉は森の中を当て所無く彷徨って、やがて誰にも受け取られることなく消えていった。

彼は読むことを一度は中断していた本を再び手に取って、しげしげと眺めていた。
「じゃあ、今度の新月の晩にしようか。もちろん晴れていない場合は中止だよ」
「それでいいわ。半月後ね……楽しみだわ」

彼が立ち上がってこちらに歩いてくる。
「風が心地良いね」
そう言って彼は窓の桟に手を掛けて私の隣に立った。
私は彼の横顔を見つめる。
彼は痩せていて少し頬骨が尖っている。
あまり寝ていないのか、目の下にはいつも隈が出来ていた。
私がベッドから起き上がる頃に彼は既に朝食の準備を済ませていることがほとんどだし、私が寝る直前まで、彼は工房で作業をしていたり、読書をしていたりする。

「今日はあなたも早めに休んだ方がいいんじゃない? なんだか疲れているように見えるわ。もう寝室に行きましょう」
私は窓を閉めて彼を促した。
「じゃあ、今日は君の言う通りにするとしよう」
彼は机上に置いた本を取り上げると、ゆっくりとした足取りで寝室の方へと歩いて行った。

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