【短編小説】ドライフラワー⑥(第二章)
***
「わざわざ送って下さってありがとう」
車を降りると、マフラーを巻きなおしながら私は彼に向かって軽く頭を下げた。
「ようやく仕事が一段落しそうなんだ。今度時間を作るからテニスでもしよう。また連絡するよ」
そう言い残して彼は窓から出した手をひらひらと振って車を発進させた。
丁寧に磨かれた黒塗りの高級車はするりと夜の闇の中に溶けて見えなくなった。
「おかえりなさい。お食事はどうでした?」
父が存命だった時と比べて肌艶の悪くなった母が玄関先で問い掛けた。
「素敵なお店でとても楽しいお食事でしたわ」
母は満足そうに頷くと私のコートを脱がせた。
不意に目の端で捉えた、痩せて骨ばった母の手が痛々しかった。
いや、痛々しいだけでなく、私はある種攻撃的な醜ささえもそこから感じてしまったのだ。
以前は女性的で程よい柔らかさを窺わせる身体つきをしていたのだが、その柔らかさの内に隠匿されていた人間としての脆さが、支えを失ったことによって一気に表出してきているかのような印象を受けた。
父が亡くなり、母と私の生活は一変した。
遺族年金と保険金を頼みにどうにか今の暮らしを維持してゆくのがやっとで、やがては臨界点に達することは目に見えていた。
その時、家庭が壊れるのが先か、母が壊れるのが先か、いずれにせよ私には恐ろしかった。
だから私は少々納得のいかない時にも、母の言葉に対して強く反発することはなかったし、極力母の望むように振る舞っているつもりだった。
しかし、そうしているうちに私は自分が本当に望んでいるものが何か、それがわからなくなってしまっていた。
「順調そうで嬉しいわ。彼はとても立派な方ですからね。あなたのわがままでせっかく築いた関係を崩してしまわないように気を付けなければいけませんよ」
そう、彼は立派な人だ。
家柄も性格も、社会への責任の果たし方も。
母の言う通り彼と将来を共にすることが出来れば、私たち家族も何不自由の無い生活が約束されるだろう。
だが、その将来は果たして自分が望んでいるものなのか、それとも母が望んでいるものなのか、私には見極められなかった。
だからこそ私は彼の好意を素直に受け取ることが出来なかったのだ。
また、その資格があるのかについても自信が持てなかった。
私は母の言葉を身振りで肯定して自室へと引き取った。
階段を上り終え、部屋に入ると私は大きく嘆息した。
少し階段を上るだけでも息切れするような私がテニスなんて出来るわけがない。
そんな自嘲的な思考を抱きながら鏡台の椅子に腰掛けた。
櫛で髪を梳かしながら私は愛とは一体何だろうかと考える。
当然、愛と一口に言っても、家族に向けられるそれと、恋人に向けられるそれとが異なるものであろうことは理解している。
ただ、もし仮に私が母のために彼と結婚することを決意した時、そこに存在する愛は家族に対して向けられるものだけなのだろうか。
彼の想いに応えることを私に踏み止まらせる理由として、微かに芽生えているであろう彼への愛の存在が私自身の足枷になっている気がしてならなかった。
私は鏡に映った自らの顔を眺め、その目の下の隈を数回擦った。
もちろん明確な根拠はないのだけれど、私は幸せを望んではいけないのではないかという気もしていた。
◆◆◆
「またこの曲かい」
私の肩に優しく手を置いて彼が言う。
「いいじゃない、好きなんだもの」
私の身内に沁みついたメロディーはいつだって心を落ち着かせてくれる。
「確かにとても綺麗な曲だ。穏やかで、それでいて力強いメロディー」
彼は瞳を閉じて私の奏でる音色に耳を澄ませる。
私は彼をもっと曲の世界に引き込もうと指先に意識を集中する。
指に僅かの力を込めて弾いた鍵盤が心地良い音色を響かせて私の指を跳ね返す。また私が弾き返す…… その応酬が美しい調を紡ぎだす……
ピアノの高らかな歌声は彼の広い邸の隅々にまで波紋してゆく。
ソファに身を沈めた彼は、両の手を組み合わせたまま身体で小さくリズムを取っていた。
この緩やかな、そしてささやかな時間が彼と私の愛を濃密なものにしてゆくのだという意識が私にはあった。
そしてふと、母のことを思い出す。
母も彼と同じように私の演奏するピアノに合わせて小さく身体を揺らし、時折、満足気に頷くのだ。
父が亡くなって、生活が苦しくなりピアノを売ってしまったため、この邸でピアノに触れられることは私にとって無上の喜びだったと言っても過言ではない。
そんな背景から私の演奏には自然と熱が入り、以前よりも遥かに感情豊かなものとなっていたように思う。
そして、彼は常に私の演奏の模範的な聴衆であり続けた。
そこには当然、私と過ごす、一瞬一瞬を大切にしようという彼の意識が存在していることを、私は何とはなしに察していた。
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