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【短編小説】ドライフラワー⑭(第3章)

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「人があまりいない場所が良いわ」
 彼女はほとんど顔を上げることなく言った。
「それなら河川敷に行こう。犬の散歩をする人くらいしか通らないだろうし」

毎日のように彼女の家に通ってようやく外へ連れ出すことに成功した。
彼女の不具を意識しながらも私は有頂天だった。

私はそっと車椅子を押した。
彼女が顔を隠すために被っていた大きな麦藁帽からこぼれる黒い長髪が、湿気を含んだ夏の風に吹かれて車椅子を押す私の手をくすぐる。
その髪は病のためか些かツヤを失って見えた。

人目を避けて、極力狭い道を通りながら私たちはようやく川の近くまで来た。
幸いスロープ状の道が存在したため、苦労することなく河原に降りることが出来た。
彼女の座る車椅子を、夏の強い日差しに直接さらされることのない下生えの上に停め、そのすぐ脇に私は腰を下ろした。
「私、東京から来たのよ。この川が流れ着く先……」

彼女は川面を見つめたまま言った。
彼女が見つめる先にある水面に乱反射する陽光は何にも縛られることなく自由にきらめいているように見えた。
「最初はこんな田舎に来たくなかった。でも慣れたらいいものだって思えた。むしろ、何もかもが思い通りになるような気さえしてたのよ」

彼女の瞳には涙がたまっていた。
私は彼女にかけるにふさわしい言葉を見付け出すことが出来なかった。
私は彼女の言葉に無力に頷くだけだった。
その時、川から視線を逸らさずにいた彼女の頬に涙が伝った。
「綺麗だね」

卑怯な私はあえて主語を省略した。
どちらとも受け取ることが出来るように。
いや、実際にどちらの意味も含んでいた。
「そうだね。ちょっと前までは私もあんな風にキラキラした未来を想像していたのに」
彼女は震えた声で答えた。
私は彼女に残された脚を盗み見た。
私の顔からわずか数十センチの距離で、細い足首が所在なさげに孤立していた。

「もうこのまま誰にも会わずに一人で暮らしたい。時々そう考えることがあるの」
思い詰めた表情だった。
もう一度彼女の姿を見て私は密かにそれに納得する。

太陽は能天気に陽光を放って輝いている。
彼女の眼前に屹立する絶望などまるで意に介さないといった風情で……

「あの山の向こうに打ち捨てられた邸があるんだ。家主が死んでしまって、今では無人になっているんだけど、素敵な洋館だよ。今度そこに行こう」
私は川を隔てて向こう岸に見える山を顎で示しながら言った。
自分の家だと告げれば彼女が気後れするだろうと思い、私は咄嗟に嘘を吐いた。
「誰もいない洋館なんて素敵ね。ぜひ行ってみたいわ。でも、この脚じゃ…… 山は無理ね」
「大丈夫。僕が手伝うよ」
そう言って私は、すぐ横に生えていた笹から葉をむしった。
一つの小さな舟をこさえて彼女の眼前に掲げる。
「さあ、願い事をして」
彼女は瞳をこすって頷いた。
私は少し間を置いてから川のそばへ寄ると、笹舟が転覆しないように用心しながらそっと川へ流した。
「きっと願いは叶うから…… 帰ろうか」
私の言葉に彼女は苦しそうに笑顔を作るとそれきり言葉を発することはなかった。

はたして彼女に願いなんてあったのだろうか。
絶望の中で希望など浮かんで来なかったかもしれない。
それでも私は、自分がこっそりと笹舟に込めた願いが彼女のためになるであろうと盲信した。

彼女は麦藁帽を目深に被って顔を伏せている。
その後ろで私は黙って西日へ向かって車椅子を押した。

その夏一番の猛暑日だった。

⚪︎⚪︎⚪︎
あの日以来、彼が私の家を訪ねてくる回数はめっきり減った。
きっと私の姿を見て幻滅したのだろう。
支えを失ったような、半身を奪われたような不思議な喪失感を感じた。
……彼は私を見捨てた。
やがてそんな思いが心を占めた。
傷付いた私はずるかった。
その喪失感を埋めるために、先輩の優しさに甘えた。
部屋の中で他愛もない言葉を交わし合うだけ。
核心を避け続ける会話。
その会話の間中、先輩は私の脚から必死に目を逸らしていた。
縮まることのない距離と残酷な程の遠慮が今の私には心地良かった。

簡単なことだった。私が一歩近付けば、先輩は一歩下がる。
彼の譲歩に縋って私はどこまでも侵蝕し、依存した。
そうして、胸に空いた穴を埋める仕事を私は他人に押し付けた。

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