輪郭線

「ねえ、せっかく二人で温泉に来ているのに、なんで君は入らないの?」

彼と付き合いだしてから初めての泊まりがけの温泉旅行。
恋人から何気なく投げかけられたその問いに、私は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。理由を聞けば、彼はおそらく眉を顰めて怪訝な顔をするだろうことは容易く予想がついた。それは私だけが抱えている理由も根拠もない不安に由来するものであり、これまで大っぴらに誰かにそれを伝えたことはなかった。

―――私は湯船に浸かることに対して恐怖心を抱えている。

湯に浸かると自分の輪郭が消えてなくなるような気がして恐ろしいのだ。
湯船の中で自分の腕を掴んでみても、それはぶよぶよとした現実味のない塊のように思えてしまう。皮膚と皮膚の間に存在する水分子が私の領域を不確かにさせる。

ただの妄想だという事は自分でも分かっている。しかしこれは自分では抗いようのないじわじわと沁み込んでくるような恐怖だった。仮に私が突然に水中に放り込まれたとして、悲鳴を上げることはないだろうが、必死になって水から這い上がろうとすることだろう。

最初にそのことに気がついたのは、実家の湯船に一人で浸かるようになってからだった。何がきっかけだったという訳でもない。ある瞬間唐突に、突然に不安と恐怖が私を襲い、以来湯船に浸かることができなくなってしまった。ただ、幸いなことに恐怖心を覚えるのは水かお湯に体を浸すことだけ。
だから私は普段の自宅はもちろんの事、今回のようにたとえ有名な温泉地に行ったとしても湯船に浸かることはなく、体を清めるのはシャワーで済ませる。他人に怪訝そうな顔をされたりはするものの、それで致命的に困ったことにはなっていない。誰に迷惑をかける訳でもない妄想であり、人にわざわざ言うまでもないことだった。

「それは水に浸かっていると自分が曖昧になるから、怖いということ?」
「……ええ、たぶん。自分でもよく分からないけれど」

私が自らの心の内をどうにか言語化して理由を説明すると、彼は怒るでもなく問いかけてきた。

「それは、自分で自分の身体を触ったり掴んだりしていても感じる、ということ?」
「そうね」
「では、他人が触った状態ならどうだろう?」
「……分からない。試してみたことはないから」
「なら、確かめてみようか」

ふざけたような声色ながらも、その目には真剣な光を湛えて彼が言う。
彼に説得されるままに、部屋に備え付けの内風呂に湯を張り、二人並んで風呂桶の縁に座り、彼に手を握られながらゆっくりと湯船に浸す。

「どうかな、やっぱり曖昧なままかい?」

私は目を瞑り湯の温度を感じながら、感触を確かめるように拳を開け閉めする。

「ううん。貴方の手が触れている場所を起点にして自分の輪郭線を感じる。これなら大丈夫みたい」

私がそう告げると、彼はほっとしたように微笑んだあと、こちらをからかうようにして言った。

「それじゃあ君が湯船に入るときは、必ず僕も一緒に入ることにしよう」

その言葉は冗談めかして告げられたものの、その後もしっかりと実行に移された。確かに彼に体のどこかを触れてもらいながら湯船に浸かると、恐怖心を感じることはなかった。実際のところは触れてもらう相手は誰でもいいのかもしれないが、私がそれを許すのは彼だけだった。

人に触れてもらいながらであれば恐怖を感じない理由ははっきりとはしていないが、誰かに触れてもらうことによって私と他人の境界を明確に感じ取れるからなのではないかと思う。元々理由のない恐怖なのだから、解消されるのに理由は無くても不思議ではない。

彼に触れてもらいながら湯船に浸かる日々は、やがて我が子を湯船につける日々へと変わっていった。両の手で落とさないようにそっと抱えて、しずしずと小さな盥の湯船につける。
何が楽しいのかは分からないが、どうやらこの子はお風呂が好きらしい。
手のひらから体温と柔らかさを感じながら、私は輪郭線を引きなおす。
それは一人で浸かったあの日の湯船とは異なり、不安と喜びを感じる行為だった。

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