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喫茶フラーグで問答を

お気に入りの喫茶店がある。初老のマスターが一人でやっている店で、家と会社のちょうど真ん中、路地を少し入ったところにひっそりと建っており、
表にちんまりと「喫茶フラーグ」と書かれた看板が置かれている。

外回りの営業の仕事をしている私は、ここで仕事帰りに一杯のコーヒーを嗜み、一息つくのが密かな楽しみなのだ。
おしゃれなカフェももちろんいいのだけれど、そういった店はなんだか周りの華やかなおしゃべりが気になってしまう。
この店のゆったりとした雰囲気が私は好きで、店の一番奥、二人席の壁側が私の指定席だった。

そう。「だった」、なのだ。

私がいつものようにカウベルを鳴らしながら喫茶店の扉を開けると、マスターがこちらをちらりと見て困ったような顔をしていた。
不思議に思いながらコーヒーを注文し、店の奥を見て、その原因が分かった。

私の指定席(といっても勝手にいつも座っているだけなんだけど)にぼさぼさ頭によれたワイシャツ、薄手のカーディガンを羽織った若い男性が一人、座っている。
その人は細い銀のフレームの眼鏡がずり落ちそうなのも構わず一心に手元の本に目を落としていた。おそらく私が店に入ってきたときも、こちらをちらりともせずに本を読みふけっていたのだろう。
しかしそこは(勝手ながら)私の指定席なのだ。

負けず嫌いの私は一瞬の逡巡の後、彼の正面、二人席のもう片方に座ってやった。

しかし彼は驚きもせずにこちらをちらりと見ると、こう問いかけてきた。

「君は、前世って信じる?」

私はその場で固まってしまった。少なくともいきなり目の前に座った女性への第一声ではないと思う。
なにか言ってやろうと思ったのに、私の口から出てきたのは彼の質問への回答だった。

「えーと、私は信じないかな」

彼は自分で質問しておいて回答がきたことに驚いた顔をしていた。置物がしゃべった!みたいな顔をしないでほしいな。

「なるほど。まあ僕も信じてないんだけど」
「じゃあなんで聞いたのよ」
「参考意見が欲しくて」

さっきから読みふけっている本をちょっと持ち上げてこちらに見せてくる。タイトルは『前世からの記憶』と書かれていた。

「前世とか信じてないのにそんな本読んでるの?」
「図書館の返却棚にあったから。…それじゃあ、魂の存在は信じる?虫にも感情はあると思う?」

矢継ぎ早にこちらに質問を投げかけてくる。

「魂は…あってもおかしくないかなと思うけど、…虫に感情はないんじゃない?」

なぜか律儀に質問に答えてしまう。そうじゃないでしょ、私。

カウンターから出てきたもののコーヒーを出しあぐねていたマスターが戸惑う私を見かねてか、助け舟を出してくれた。
目の前に煎れたてのコーヒーを置きながら、彼に一言、声をかける。

「だめですよ、そんなに一方的に話をしては。グラスに熱湯を注ぐようなものですよ」
「いや、僕が見る限り彼女はコーヒーカップのようですよ」
「ちょっと待って。会話についていけない」

慌てて手を振って会話を遮った私を見て、目の前の彼が説明する。

冷えたグラスにいきなり熱湯を注ぐと割れてしまう。
これはグラスの内側が熱で膨張するのに対してまだ冷えている外側はさほど膨張しないためで、この違いで外側が無理やり引き伸ばされ、もろいグラスは割れてしまう。
一方でコーヒーカップのような陶器は作る際に大量に熱を加えているためにちょっとやそっとの熱では割れにくくなっている。

「というわけだ。いちいち説明させないでほしい」
「ははあ、そういう理屈なのね」

思わず腕を組んで感心する私を見てマスターがつぶやく。

「…どうやら、お客様には関係なかった模様ですね。うまいたとえ話をしようと思ったのですが、残念です。ごゆっくりどうぞ」

小さくにこりと笑うとマスターはカウンターの裏へと戻っていった。

そのまま私が頼んだコーヒーを飲み終わるまで、ときおり彼は質問を投げかけてきた。
それは普段なら考えたことの無いような類の問いかけであり、私は問われるがままに頭に浮かんだことを答えていく。
彼は私の回答に「なるほど」とか「ふむ」とか、一言つぶやくとまた本の中に入っていく。
営業の仕事と違い、明確な成果を求められない問答は意外なほどに心地よかった。


それからというもの、私が喫茶店を訪れると必ずといっていいほど彼は一番奥の壁際に陣取って本を読んでいた。
私はいつものようにマスターにコーヒーを一杯注文すると、彼の向かいの席に座る。彼はちらりとこちらを見て、質問を投げかけてくる。

「AIにも心は宿ると思う?」
「宇宙に終わりはあると思う?」
「人の意識はどこから生じると思う?」

答えがあるような、無いような質問に私は答えていく。

「えーと、そのうち宿るんじゃないかな」
「うーん、いつか終わるような気がする」
「それは、やっぱり脳からだと思う」

私が返すのはいつも大した回答じゃない。ただの思いつき、浮かんできたことをそのまま放り投げているだけだ。
けれども日々の仕事とは全く無縁の、どこか世間から離れて浮いているようなこのやりとり、コーヒー一杯分の問答をいつの間にか楽しんでいる自分がいた。


さて今日はどんな質問が飛び出してくるのだろうか。喫茶店のドアを開けるとき、私は少しドキドキするようになった。
彼の最初の質問を思い出してみる。

「君は、前世って信じる?」

なるほどもしかしたら、私の前世はコーヒーカップなのかもしれない。

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