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霧笛とクジラ


霧の日にはクジラが鳴く。


あたりはすべて白い霧に覆われ、世界の輪郭までぼやけてしまう。

ここはどこなのだろう。

誰かいないのか。

呼びかけるように、悲しく、低く、鳴き声を響かせる。

霧に覆われた町に、遠くから霧笛の音が響く。
僕はその音を、クジラの鳴き声だと思っていた。


僕の父親は遠洋漁業の漁師をしていた。
それゆえに家を長く空けることが多く、母親も収入を補うためにパートで働いていたから僕はもっぱら祖父母の家で過ごしていた。
港に面した高台にある祖父母の家は海から吹きつける潮風に長年晒されてすっかりくたびれていて、畳にまで潮の香りがしみ込んでいるような気がしていた。

霧の日の夜、祖父母の隣で横になっていると、遠くからぼおおおぉぉぉぉ、と音が聞こえてくる。そんな時には僕は布団を頭からかぶって、親子のクジラが霧の中を悠然と揺蕩っていく様を想像していた。
ついてきているかい?ちゃんとついていってるよ。そんな会話を交わしているように思えたそれは、無意識に父親の姿を求める僕の心が生み出していたのだろうか。

昼間から霧に覆われたある日のことだ。
その日は特に霧が濃くて、少しの先もよく見通せず、まるで違った世界に迷い込んだように思えた。
学校から祖父母の家まで帰る道のりを僕は歩いていた。
急な山肌にしがみつくように建てられた民家の間をぬって足元に気をつけながら登っていく。

不意に、すぐ近く、僕の真上でクジラの鳴き声が聞こえた。
いままで聞いたことがないような音量で、民家の窓ガラスも音圧でぴりぴりと震えている。
僕は音の鳴るほうへ顔を上げ、そして目にした。

白い霧の中を悠然と進む巨大な黒い二つの影。

寄り添うように進んでいくそれは、僕が寝床で想像していたものよりも遥かに巨大だった。
霧を通して地上にわずかに注いでいた日の光はそれによって遮られ、あたりが刹那の闇に覆われる。
僕はその場に立ちすくんだまま呆然とその二つの影を見つめていた。
ぼおおおぉぉぉぉ、ぼおおおぉぉぉぉ、と鳴きながら僕の頭上を通り過ぎていく。
彼らはどこへ向かうのだろう。遥か彼方、僕の父親がいるであろう遠くの海まで行くのかもしれない。
伝えてくれないか。僕は待っている。ここで父親を待っていると。


どれだけ時間が経ったのだろうか。気が付くと霧は晴れており、午後のけだるい日差しがあたりに降り注いでいた。
クジラの影はどこにも見えず、ただ眼下に小さな港町が広がっているだけだった。


今にして思えば、それは沖合を行く巨大な貨物船か何かに霧笛の音が反響し、偶然にも山肌で共鳴、拡大されて僕のいるところまで届いただけだったのかもしれない。
クジラに思えた影は、たまたまそのタイミングで太陽にかかった雲だったのかもしれない。
でもあの瞬間、僕は霧の中を行くクジラの親子を確かに見たと思ったのだ。


あれからそれなりの年月が流れ、僕の面倒を見てくれた祖父母もすでに亡く、父親は体力の限界を訴えて陸に上がり、母親と共に漁協で事務員として働いている。
通信技術の発達により港の霧笛もその役目を終え、その音が町に響き渡ることが無くなってから、もうずいぶん経つ。


それでも世界が霧に覆われ、全ての輪郭がおぼろげになった一刻、僕はどこからかあのクジラの鳴き声がいまも聞こえてくるような気がするのだ。

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