二月の棘 第一話 手帳
桜の季節だった。
まだ肌寒い三月下旬、僕は姉から夜桜見物に誘われた。
散り際の桜が風のない公園の街灯に照らされて、はらりはらりと名残惜しげに地表に引かれている。
姉とは社会人になって実家を出てからは別々に暮らしている。半年に一度も会わないことが常だ。姉から誘いが入ること自体が珍しい。
そのうえ開口一発、今日はちょっと苛ついてんだけどと牽制が入る。
いや。そんなこと言われなくても、姉が穏やかで優しかった記憶など数えるほどしかないのだが。
「こないだ、アンティークショップというかガラクタ屋というか、そんな店で小さな和箪笥を買ってね」
いきなり本題かよ。そう思ったが口には出さない。
姉の座っている木のベンチにドサリと荷物を置いて僕も座る。
一応、花見っていうから色々と見繕ってきたのにな。生ぬるいビールなんて飲みたくないし、まだ熱々のつまみもあるっていうのに、古い箪笥の話なんか僕にはどうでもいいんだけれど。
「一回きっちり綺麗にしておこうとちゃんと見てみたら、引きだしが二重になっててさあ」
「へぇ。大昔のラブレターでも潜んでたとか?」
僕は姉の話に取りあえず付き合うことにした。
どうせ僕が何を言ったとしても姉に聞く耳がないのはいつものことだし、さっさと話を終わらせるには聞いてるふりでもしていたほうが結果的に上手くいくのは、経験上分かっている。
「まあ、そんなロマンチックなものだったら良かったんだけどさ」
「うん」
姉が言うにはわりと分厚い手帳が入っていたらしい。
ただし持ち主を示す手がかりが何もない。スケジュールの記載はなくて、フリースペースに細かくびっしりと文字が並んでいるだけ。
それはまるで小説を読むようで個人を特定できないのだという。
「手帳じゃなくて小説か何かのアイデアノートとか?」
僕の言葉に、姉はほぉと感嘆の声をあげた。
「あんたにしちゃ珍しく鋭いじゃないの」
あんたにしちゃと来たか。そりゃあ僕は、ぼんやりしてて周りに取り残されるタイプには違いないけど。
姉の中の僕の評価なんてのは、だいたいこんなもんだ。なのにもう四十歳を越してしまったなんて自分でも信じられない。
「店に問い合わせたんだけど箪笥の持ち主は分からないし。警察に届けようとも思ったんだけど、持ち主を特定出来る情報が何も書かれていないし。なんか気持ち悪くなって、もう捨てようかなと思ったり」
姉はそう言いながら、脇に置いていたバッグの中から一冊の分厚い手帳を取り出した。
千鳥格子の布カバーがかかった文庫本サイズの手帳。使い込まれた証拠に紙がふくらんで分厚くなっている。
「なんだ。持ってたのか」
姉の取り出した手帳を見て、僕はぼそりと不満の声をあげた。
これは話が長くなりそうだ。ぬるいビールは飲みたくないってのに。
「あんたが興味ないんなら、見せる気はなかったんだけどね」
話を合わせただけで、どうでもいいんだけどな。
それに手帳なんて個人情報がたくさん書かれてるものだから、他人の領域を侵すみたいで触りたくもない。
「手帳って、中身見るの躊躇するよね」
僕は、ちょっとだけ非難を含ませて姉を牽制する。しかし姉は、オーバーに肩をすくめて見せただけだ。
「こういうのってさ、だいたい最後に本人のパーソナルデータを書くページがあるじゃない?」
姉は取りあえずそこだけ見て持ち主を特定しようと考えたらしい。しかしそこは全くの空欄だったそうだ。
「そのまま何も考えずに、交番に持って行けば良かったんだけど」
まあ、普通はそうするよね。僕ならそうする。しかし姉は違ったらしい。
「まさか、他に手がかりがないか探したってこと?」
「つい、ね」
まったく信じられない。僕ならそんなことはしない。とっとと交番に持っていく。嫌なものはすぐに目の前から遠ざけて終わりにする。それが普通のことだと思うんだけど。
しかし僕は、手渡された手帳の表紙をめくってみた。そして、あれ? と思いながら瞬きをする。
「これ……十五年、十六年前の手帳だね」
「そうなのよ」
見た目がとても綺麗だったので先入観を持っていたが、内表紙の中央には1996と箔押しされていた。
パラパラとページを繰る。手帳の中身は一月から十二月までほとんど白紙のページがなく、細かい文字で埋め尽くされていた。滲んだ文字は紙の裏に裏うつりして、手垢のついた部分が少し黄ばんでいる。
ただ僕は、手帳の文章を読む気にはなれなかった。
「これさぁ」
パラパラとページをもてあそびながら姉に質問を向ける。
「持ち主はまだ探してると思う?」
姉は分からないと言うように首を左右に振った。
「僕には、誰かが見つけることを期待して隠したタイムカプセルに見える。ほんとのことは分からないけど」
「タイムカプセルねぇ」
姉が苦笑をこぼす。いい歳して何を夢みたいなことをと思われたらしい。
古い箪笥に隠された十六年の前の手帳なんて、学生時代に埋めたタイムカプセルじゃん。僕は自分の感想を肯定しながらも、頭をもたげた嫌な感情に思考を連れ去られる。
あの時に僕は何を書いて埋めたのか。とっくの昔に忘れているし、同窓会には一度も行ってない。過去なんてまるで興味ない。
もう生まれ育った土地とは違うところに住んでるし、同窓生との繋がりも一切ない。そんなものに縛られてるなんて馬鹿馬鹿しい。
過去は、忘れるために存在しているんだ。
「かなり胸くそ悪くなる内容よ、それ」
「胸くそ悪い? これで小説書いて印税でも稼いだら?」
僕のアイデアに姉は呆れたらしい。眉を寄せ、ビシリと指を突き付けられた。
「アホか! それって盗作じゃんか」
「ははは」
誤魔化し笑いをする僕を、姉がねめつける。
いつもこんな感じだ。姉の迫力に押されて、結局は僕が譲ることになる。
こんなつまらない冗談ですら、僕は姉に勝てたためしがない。
「そんな筆力あったら苦労しないわよ。もう!」
「まあ。交番に届けるのが無難じゃない?」
僕は話を現実的なところに持って行った。
隣に置いてあるビールの方がよほど気になる。列に並んで買った新商品のつまみもあるってのに。
「だよね。やっぱ」
「持ち主が、まだ探してるとは思えないけどね」
そんな昔の物を今も探しているわけがない。僕はそう思っていた。
交番に届けても持ち主は見つからず、そのまま保管期間が過ぎたらどうなるんだろう。そもそもこういう物の保管ってどうするんだろう。
ただの手帳だ。特別大事そうな物にも見えない。
その時、はらりと落ちた桜の花びらが、開いた手帳の上に落ちた。
栞をはさむように僕はパタンとページを閉じたが、何かが気になって桜の花びらを探す。そして……。つい、そこに書かれた文字を読んでしまった。
『一番嫌いなのはね、肝心な時には何もしないで後になって評価するような人よ。自分の主張のために他人を傷つけることを何とも思わない人よ』
『馬鹿で無知な子供ほど何でも知った気でいるじゃないの。世の中みんな馬鹿ばっかりって子供の頃は思っていたでしょ』
なんかちょっと刺さった。
姉の言った胸くそ悪いという言葉の意味が分かったような気がした。
「ごもっとも」
僕の呟きに、姉が片頬を歪ませる。
「でしょ。だから胸くそ悪くなるのよ」