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江端一起さんの『日ノ岡荘みんなの部屋の物語』を読んで思ったこと                                原田牧雄

江端一起さんの『日ノ岡荘みんなの部屋の物語』を読んで思ったこと                                原田牧雄
 福祉作業所で働くことを基本にするのではなく、その前に無理のない形で自然に集まって自分のこと、自分の病気のこと、今何か感じていることを話し合ったり、一緒に美味しいものを食べたりする「みんなの時間」が大切…それこそが「患者自治会」の土台。
「患者会」は通所作業所、デイケアなど、外から持ち込まれたシステムにとってかわられ、消滅の危機にある。キチガイが生きのびるために、「患者会」は絶対必要。
トラックやバスにも、カラスにも本気でケンカを売る、生きることに貪欲で、よく笑いよく怒り、よく食べる、好きな仲間には徹底して人懐こく接する、もさん…こういう人が仲間とニクマンがあっても生き生きと暮らせるところ。空気を読んで互いに気を遣い合いながら「生きづらい」なんて言っている人たちとは全く違う世界、本当の世界…もさんの手は、渥美清さんの手形とぴったり…寅さんも初めの頃の映画では、本気で怒ってタコ社長とケンカしてたな、もっとずっとストレートで乱暴者だったな、なんて思う。
30年近く精神病院入院させられ、70歳になってまた入院…四肢拘束され、どんな思いで生きたのでしょう。シャバへの唯一の出口は、仲間の懸命な努力による外泊…。
胃袋に直結するカレーの味のレベルの問題が、一番大事な問題。その日その日のメンバーやその日その日の関係がどうなっていくのか…みんな生きていることの底で生きている…。今やっていることを続けることがあなたの成長につながります、なんていう「教育中毒者」の浮ついた話とは違うのだ。でも時折、浮世の夢の香りのような、ざわーとした風がかすかに吹く。その風に乗ってか乗らずか、何人かが踊りだす。何ともいえない苦しくて哀しい踊り…人の哀しみには色々な哀しみがある。でもこんなに軽やかで深い哀しみが、他にあるだろうか?
「当事者」という言葉が嫌いだ。その人を分断し、孤立化し、自閉化するから…。
強制入院させておいて、一度も面会に来ない家族。最後は成年後見人が、延命措置は要らないから、早く殺してくれと言う。そしてずっと付き合ってきた患者会の仲間に、あなたたちに意見を言う法律的な権利はない、と言う。しかし患者会は、これまでずっと家族以外の者に病気の説明はできない、と言われてきたことを乗り越えてきた。
 閉鎖的で風通しの悪い血縁関係は、仮構された親密さを強制され続けることがある。そしてその仮構された親密さは、実は氷のようなぞっとする冷たさと表裏一体なのではないか…そこに「セーカツ」はなく、近代家族という「非親族を排除した閉鎖的なプライバシー空間」だけがある。それは法律やシステムで固められている。(孤立した閉鎖的な家族形態ほど管理しやすいものはない)
 前進友の会のレクがきっかけで外出許可が取りやすくなり、レクの楽しさを通して症状が良くなり、行動制限や保護室から解放される仲間もいる。
 先ほども言ったが、血縁家族は閉ざされた風通しの悪いプライバシー空間で相互依存を強制される…その仮構された親密さの裏は、ぞっとするほど冷たいこともある。一度深い亀裂が入ると修復できない。それなのに法律的には強固なシステム…。
 家族には、人がそのまんまで生きられる「セーカツ」がない。「患者会」は、人がそのまんま生きられる、みんな好き勝手で、中には来ん人もいて、でも関係の中心に食べること=生きることがあって、レクや食べることが何より楽しくて、まずは会って群れること、目的も目標も要らない。そのまんま生きられるというのは、仲良くしなきゃとかルールを守ってなんていう縛りはうすいけど、ニクマンもあれば、ドロドロもある。
 めいめい自分の生きるままに生きている、だけど生きている。訓練目標だとか社会復帰を目指して、なんてないけれど、生きてる底で生きている。
 「生きづらい」なんて言っている人は、教育化と医療化に挟み撃ちにされて、生きている力を抜き取られている。「自己肯定」は、初めはそのままの自己を肯定することだったのに、「教育化」によって「自己肯定感」に変わり、自己肯定感が高いとか低いとかという評価になってしまった。
 しかし距離感をなくした善意の底知れない落とし穴にはまった女性が、同じく善意に取りつかれたトランスジェンダーの若くてきれいな性解放実践者の女性と組んで、友の会の男性たちを翻弄したら…どんな困惑と混乱の生活になったか…多くの人が依存しきっていたところに、さらに事態に引き込まれる人、反発する人、裏切られたと思う人、静かに生活できなくておかしくなってしまう人・・・。こんな想定外の事態が起きてしまうのも、ここの場が人と人がそのまんま直接触れ合う稀有な場だったからかも、と勝手な想像をしてしまった。勿論出て行った人もいたかもしれないけど、それでもキーサンの生きる底で生きているセーカツは、しぶとく、哀しく、おかしく続いていく。
 生きている底で出会っている仲間と一緒にいるから、義理人情などではない、互いにそこに居ることを感じ合って生きている。互いがそのままの姿で存在していることを分かり合っている…きっとそうなんだと思う。だから強制移送も強制入院も仲間がやる。医療や福祉の判断でやるんじゃない。生きる底で生きながら、そのまんま生きていることを、共感も反発も含めて一緒にそこにいる…。今の世の中がからっぽにし、消去してしまったセーカツがそこにはある。
 私自身、読ませていただいて、こんなイメージが生まれたことで、歌謡曲もクラシックもすごく良い、食べるものも美味しい…。
2024年7月1日

(原田さん、ご感想、、本当にありがとうございます、、感謝です、、ご本人さんの原田さんとは、、交流広場で再会、、愉しかったです、、その時に御了解を得ましたので、、ココに掲載させていただきました、、ありがたいです、、原田さんありがとうございます、、、、えばっちより)

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1前進友の会 えばっち


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