普通に生きてもいいとバラしてしまった「すばらしき世界」
時代の変化をこれほど痛切に感じたのは久しぶりかもしれません。
映画「すばらしき世界」。
地味な映画でしたが、受けた衝撃は決して小さくありませんでした。
なぜって「ヤクザが普通に、平凡に生きるのを選ぶ」映画だったからです。
個人的にはヤクザ映画=任侠映画といえば、「かたぎじゃいられない美学」を描いているという印象を持ってまして。
ささやかな幸福をつかむために、平凡で普通なカタギの世界に居場所を見つけるよりも、情を重んじ波風吹き荒れる波乱万丈な暮らしを生きてこその人生だと。
「尊厳」や「友情」のために日本刀1つでかっこよく切り込むのが高倉健をはじめとする任侠映画なら、血反吐を吐いて這いずり回りながらも普通の生活に戻れないのが「仁義なき戦い」シリーズ。
普通の幸せをつかみかけても結局家族を捨ててまで男の道を選ぶのがニューウェーブ「竜二」。
堅気になると決心した男が結局、盃を交わしたヤクザとの契りを守って裏切り者を殺めてしまう男の物語が「鬼火」だったのかなと。
ネタバレ覚悟で書くならば、「すばらしき世界」で主人公はヤクザに戻らないんです。
筋を通したり、自らの立場を危うくしてまでも友情を重んじたり、尊厳を守ったりするよりも、残りの人生を普通に、平凡に過ごせる立場を優先するんです。
現実と折り合いをつけるんです。
実感します。
普通でいい、平凡で構わない。
幸福になってこその人生じゃないかと。
そして主人公に共感し、「それでいいんだ」とうなずきながらも、どこかで美学を失ってもよしとする主人公の姿を見て、「悲しい時代に、世界になっちゃったよな」と思ってる自分もいましたが。
「しょうがないけど、なんとなく釈然としない」もやもやした気持ちは、そのやりきれない結末と絡み合って、風に舞うかと感じた瞬間、「このすばらしき世界」というタイトルが。
そんな世界で生きているのだと。