終わり、を意識すること。
先日、普段かけ流しにしているニュースのキャスターさんがどうやら最終日だったよう。
自分の感情をあまり出さないキャスターさんが、この日ばかりは泣かないようにと、こられきれない思いが薄く体温のない画面から溢れ出ていた。
毎日当たり前に見たり聞いたりしていると、無意識にこのままがずっと続くものかと錯覚してしまう。
桜が咲きほこり、生きていることの素晴らしさを心で感じるこの季節は、その後すぐに少し特殊な悲しさを引き連れてくる。
このとき、日々の仕事や私生活の流れに凪が訪れ、ひとつの事実が映される。
永遠はないのだと。
先日も有名だった柔道の選手がこの世を後にされた。
「日常」が、どんな凶器よりも鋭利に切り落とされる。
子さな頃、サザエさんやドラえもんを見て、アニメのキャラクターたちは何年経っても小学生は小学生のままで、私の家族も歳をとらずずっとそのままかと本気で信じていた。
いつの間にか長くなった陽に黄昏れながら、どこか寂しい気持ちの奥で
終わりを意識することで、生き方への背筋が少し伸びた気がする。
(この文を書いている私はすっかり椅子も迷惑なくらい背もたれに寄りかかっていたので、慌てて姿勢を正した。)
今日新年度がスタートし、新社会人とたわいなウソの流れるニュースを見るていると、早くも期待の交じった始まりムードになってしまいがちだが、希望のスタートは、同時に終わりに向けての始まりでもある。
明日も眠気と戦いながら、ちっさく、だが精一杯生きようと思う。
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