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かぐや姫は地球に行きたい 3-1

 長い髪を振り乱し、四足歩行の怪物と見間違える様で籠から這いずるように出てきたその姿。人目を気にすることなく、従者の持つタライにダバダバと胃の内容物を吐き出し続けるその娘の姿に、さすがに月の王は可哀想に思った。

「どうせ睡眠薬でも飲んで、帰り道も罰になると期待してはいなかったのだが……調薬の記憶は戻らなかったのかい?」

 声をかければ、彼女は口元を手で拭いながら振り返る。口端からヨダレをこぼしつつもどこか勝気なその顔を見て、ようやく王は自分の娘が帰ってきたことを実感した。

「いやぁ、飲むつもりだったんですけどね。地球で世話になった方にダメだと言われまして」

 ダメだと言われたから飲まなかった。これまで何度も何度もダメと言っても聞かない姫の姿を見てきた王にとって、その理由はとても信じられなかった。

「一体、地球で何があったんだい?」
「まあ……いろいろと。ここでの暮らしより、はるかに凝縮された経験を」

 どこか遠くを見つめて答える姫は、王が初めて見るくらいとても優しげな顔つきで、王は心の中で「誰?」と、呟かずにはいられなかった。

「そんなことより、父上。ご無事で何よりです。情勢不安でクーデターが起こり、もう少しで暗殺されたりされなかったりだったそうで」

 王に視線を移し、打って変わってあっけらかんと言い放つ姫は、王も見なれた姫の顔。それでも、自分を父親だと覚えているだけでなく心配の言葉を発する、記憶も人間性もしっかりしている姫に、若干の薄気味悪さを覚えてしまう。さすがにそれは姫に悪いと首を振った後で、言葉を付け足す。

「……そんな物騒なところじゃないよ、この星は」
「それでも、さぞ大変だったことでしょう」

 かつての傍若無人で話の進まない姫との会話にも困ったが、こんな風に穏やかに会話が進んだら進んだで、返す言葉に詰まってしまう王だった。その時、辺りが騒がしくなり、幾人かの足音が聞こえてくる。

「姫様!」

 重なる声に目をやれば、そこにいたのは姫と同年代の男女たち。その中の1人から、姫は視線を動かさない。

「ジル……」

 姫の口からこぼれたその名前に、その呟きが聞こえた者は息が止まるほど驚いた。周りが固まっている中、姫は小走りで駆け寄ると、彼の元で跪く。

「ジル、ごめんなさい。私のせいで大変な思いをさせた。あなたにも、あなたのおじい様にも。どうか許して」

 頭を垂れる姫の手を取ったジルは、すぐさま立ち上がらせながらも、震える声で聞く。

「誰?」

 その場にいる全員が思っていることだったが、姫はジルの目だけをまっすぐに見つめて、そして柔らかな笑みを浮かべて答える。

「ニャ・リョォルダァ・ケノンカ・グゥ・リヤ。月の王の娘で、あなたの婚約者。そうでしょ? 若君様」

 姫が覚えてくれていたこと、名前を覚えてくれていたこと、婚約者だと認めてくれたこと、謝るほど自分に関心を持ってくれたこと、初めてのその経験に若君は震えていた。

「……姫様……ありがとうございますっ」

 どうにか声を振り絞るものの、涙が溢れてくる。

「泣かないで、私がいじめてると思われちゃう。あ、それともやっぱりあれ? 許してくれない感じ?」
「違っ、違います。許すも何も……僕はあなたが帰ってきてくれただけで良かったのに……」

 涙で言葉が続かない若君に、姫は可笑しそうに小さく笑うと、若君の首に手を回し、抱きついてその背中を擦る。突然のありえない光景に「おぅ」と、出てしまった声を慌てて口に手を当て抑える周囲。

「もう泣かないで。地球の話してあげるから。面白い話をして、あなたを楽しませるって、約束したでしょ?」

 幼い日の約束を持ち出してきた姫に、若君はいよいよ涙が止まらなくなり、子どものように泣きじゃくる。そんな若君の背を、可笑しそうな口元と愛おしそうな目で擦り続ける姫。
 その様子に、辺り一帯は「え? え? え?」である。ちなみに1度目は、今見せられているイチャつきへの「え?」であり、2度目は、本当にこれはあの姫なのかと過去を思い出す「え?」であり、3度目は、これは現実なのか周囲とアイコンタクトを取りながらの「え?」である。もちろん3度の「え?」だけで解決することはなく、無限ループに陥っている。

「あ、ロダ〜。元気してた?」

 若君の背中越しの姫からふいに手を振られ、姫のお気に入りの侍女ロダは、ぎこちなく頷くと共に「違う違う、今じゃない」と、手を振り返す。こんな状況でなければ、ロダは全力で「おかえりなさい」と叫びたかった。それでも姫と若君の関係にずっと気を揉んでいた者として、この光景は何より待ち望んでいたものだった。そして、横に立っているのに姫から名前も呼ばれず手も振られず見向きもされていない、若君の付き人レオに、ロダは心の底から「ざまぁ」と思った。

「あの〜。悪いんだけど。君をこんなに早く呼び戻したのには理由があってね」

 いい加減に痺れを切らした王が、公衆の面前でイチャつく自分の娘の視界に入るように顔を出す。王の気配にすぐさま姫から距離を取った若君は、どうにか涙を引っ込めようと息を止める。若君に回していた腕をつまらなさそうに彷徨わせる姫は、王を責めるような表情と、やや投げやりな態度で答えた。

「ああ、そのことでしたら、既に手筈は整っていますので、ご安心を」

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