語れないものを語ることに意味はあるか
僕は自分の言葉を発するのに、とても時間がかかる。
より自分の伝えたいことニュアンスに近い言葉はないかと必死に探している間に、話題はどんどんずれていく。
今日、仏教の「法界」の話をしていて、それは絶対的に存在するものだという。僕達が普段認識しているものは相対的だ。「重い」はそれ単体では意味がなく、「軽い」と比較するものが存在して初めて意味が生まれるといった具合だ。
法界は、「対となるものがない」から絶対なのだ。
ただ、ある。
だから語れないのだ。どうあるかではなく、あるから。それについて語ろうとして、例え話を始めるとそれはもう相対的になって、言葉を尽くすほど離れていってしまう。
じゃあ、それについて語らなければいいかといえば、そうではないと僕は感じた。つまり、どれだけ法界について語ろうとしても的の中心を射抜くことはできないが、その周りをひたすら語り尽くせば、おぼろげながらも形が浮かび上がってくるではないか。
きっと宗教家とか哲学者はそういうことをやっているのだな、とようやく腑に落ちた。(所要時間10分23秒)
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