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Photo by
hiragi
私の見た風景はいつ、どこのものか
どういう縁なのかはわからないけれど、最近オンラインで知り合った人々が全然違う経路から出会うのに、震災を体験した人々だった。
全く違う話の流れから、震災の話が始まる。それほどでに、人生に大きな影響を及ぼしたのだろう。ただ、今まで何人もの話を聞いてきて、なぜか僕はその話に入り込めない感覚がある。
あまりにも大きな出来事すぎて、臨場感が湧かないのだろうか?
そんなはずはないはずだ。だって、僕は僅かでも触れたから。
震災後、1ヶ月も経っていない時期に少しだけボランティアに行った。そこで、瓦礫となった数々の建物とそれに覆い被さる土砂を見た。一見落ち着いて見えるけれど、張り詰めて今にも決壊しそうな人々と接した。
ただ、見たからこそ、あの場所で人々が生活を営んでいたとは想像できなかった。
たとえば、閉園して放棄された地方のアミューズメントパークや保養施設にしたって、荒廃はしていても建物の面影は残っているし、そこに人が訪れていた想像はできる。
けれど、あの場所にはその手がかりも残っていなかった。少なくとも、初めて行く僕には生活の残滓は見つけられなかった。僕には、全てが流されてしまった状態が、その場所の初めての風景として記憶された。
そう考えてみると、ある出来事について考える時に、その前はどうだったのかを知ることもやはり大切なのだと思い直している。「これからどうするか」を考えるだけならば、「今まで」を知る必要はないのかもしれない。けれど、その違いを認識するためには「今まで」を知る必要があるのだと思う。
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