話の種と祈り
大物カップルが結婚すると、お祝いをする言葉がSNSに溢れる。
これは昔から疑問に感じている。まだ本人に向かってDMやリプライを送るのはわかるのだ。祝福の気持ちを伝えたいのだろう。けれど、名もなき個人のアカウント上で、あるいは本人のいない場所で、祝いの言葉を述べたところで、本人に届くはずもない。
その言葉を投稿することによって、祝いそのものよりも、自分の周りの人との会話のきっかけにしたいだけではないだろうか? 祝いなど実は二の次なのだ。
ただ、全てがそうかと言われたら、そうではない。
祖母が長く生きられないとわかった時、僕は健康を願う言葉をSNSに書いた。大きな地震があった時に現地の人の安全を切に願った人もいるだろう。
それは苦境にいる人には届かないのだけど、本当に祈っていた。
そう、祈りだ。
自分にはなにもできないのはわかった上で、それでもなにかできないかと考え、手を合わせて祈る。祈りだけではなにも変わらないという人もいるけれど、祈りは尊い行為だと思う。
その人の身体、振る舞いを見ていれば、だいたい本気か否かはわかる。しかし、SNSで言葉だけになってしまうとその本気度は測れない。だから、SNSでお悔やみの言葉や祝いの言葉を見かけたら、きっとこの人は本気で祈っているのだろうと思うようにはしている。
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