らくだメソッド2年の振り返り
停滞とマンネリ。
この振り返りを書き始める時に、そんな言葉が浮かんできた。
「続けられるってすごいですね」
まわりからは、そんなことを言われるようになっているのだけど、私は素直に頷けない。それは謙遜でも何でもなく、私の記録表は最近穴だらけだからだ。1週間の半分もやれていないこともある。
2年も続けてきているのに、そんなものだ。
ひとつ言い訳をするとしたら、高校教材の数学は、1枚のプリントをやるのに平気で20分かかる。しかもかなりの難易度になっているので、「よしっ!」と気合を入れて取りかからなければ、小学校教材をやる時のような感じでは、とてもじゃないけれどできない。
「凄いね」とか「ダメだね」と言う人は、どちらも結局のところ、私の実態を知らない点では変わりない。わからないままに人は声をかけるのだ。
なにも知らない人の評価はあてにならないし、それに踊らされて一喜一憂してはいけない。
だからと言って突っぱねるのではなく、それを上手に糧にしていくことができるようになった。
とはいえ、どこか惰性でプリントをやっているような感覚が抜けない。
やるということが当たり前になったがゆえに、作業的にプリントに向かっている自分がいる。
「さあ、やらなきゃ」と自分で呟いて、やらなきゃいけないものになっていると気づいた日には愕然とした。だから、プリントができない日が多くなっているのかもしれない。
始めて9ヶ月の時点で同じようにできなくなった時期があった。
その時の文章を読み返してみたけれど、当時と今は同じ状態ではない。当時は「振り返りの時期」としてまとめていた。今までやってきたことは何だったのか、ということを消化するための時間だった。
けれど、今はそうではないと感じている。
言うならば、蛹(さなぎ)の時期だ。
羽ばたくための準備をして、じっとしている時。飛び立つためにこもって、内側の変容を待っている。今か今かと、待っている。
さあ、もうすぐか。今度こそできるか。
けれど、その時はなかなか訪れない。
もう器の内側はもう一杯になるくらいまで満たされているのに、いつまでたってもこぼれない。表面張力が働いて、もう限界を超えているのに、いまにも殻を破ろうとしているのに、あと一歩で破れられない。そんな日々が続いている。
もう少し。あと一歩何かが足りないのだ。
それが起これば、全てが一気に動き出す。そんな予感があるのだ。ずっとそのきっかけを探っている。そんな3ヶ月。大した前進も後退もなくもぞもぞそわそわして、毎日を過ごしている。
なんだか人は、成長し続けなくちゃいけないという風潮がある。
でも、なんで成長しつづけなくちゃいけないんだろう?
人間ってそんなもんじゃない。 その場に留まって、後戻りして、やり直した方がいい時だってある。
ふつう、成長するには新しい何かを取り入れようとする姿勢が欠かせないとされているけど、取り入れるのを止めたほうがいい時だってある。
一回できたことができなくなることは、本当に悪いことだろうか?
プロのスポーツ選手だってスランプになって、でもそれを乗り越えるとまたひと皮剥けた選手になるんだ。実際の人間の成長過程って、そういうものじゃないのだろうか?
また、できない状態に戻ろうよ。
本当はできてなんていなかったんだ。
できたというのは、ただの思い込みだったんだ。
それに気づけたからこそ戻れるんだろう?
らくだメソッドでは、自分の中にあるものを自分で出し入れする姿勢を大切にしている。
それが心地よいし、その貴重さをしみじみと痛感している。
世間には、自分の中にあるものを誰かと共有しなくちゃいけないような外圧を感じているからだ。
正直なところ、なんでもシェアするのは苦痛だ。
頼むからみんな同じにならないでくれ、と私は心の隅で叫んでいる。
均一なものだけ、綺麗なものばかり見せないでくれよ。
それは価値を無意味にしてしまっていないだろうか?
あらゆるものにフィルタをかけて、美しいものを仕上げて集めていく。
じゃあ削ぎ落とされたものは、いったいどこにいくのだろう?
上澄みの美しいものだけをすくい上げて外に出せば出すほど、心の内には搾りかすや沈殿物が堆積していくような感覚があるんだ。
だから、すべてを共有したくない。
そうだ! ワクワクしたくないんじゃない。
外に拡散することで、内に変なものを溜めたくないって気持ちが大きい。
出すならみなまで、良いも悪いもひっくるめて撹拌して、表出していきたい。
けれど、私は言葉で伝えることにはあんまり興味がない。自分は口下手だから、そう感じるのではないかと思っていた。だけど、どうもそうじゃないみたいだ。
インタビューゲームというコミュニケーションゲームを繰り返して、喋ることに苦手意識がなくなってもまだ、言葉以外のものにこだわりを持っているからだ。
そうして振り返ってみると、私自身が言葉だけじゃ響かない人間だから、そういう風にせざるを得ないのだということに気づいた。華々しい実績なんて、さほど興味がない。
「生きざまを見せる」と言えば格好いいのだけど、実際にはもっと泥臭い。
たとえるなら、血の染み付いたバットのグリップかもしれないし、履き潰したスパイクかもしれない。
けれど、そうした微細な場所に漏れ出す痕跡に、心が揺さぶられるのだ。
おなじように、そういう何気ないものから感じてくれる人がいればいい。
「成果だ、結果だ」と人は言う。生きていくにはそれが必要だって。
でも、身寄りがいなくたって、仕事がなくたって生きている人がいるのが日本の現実。
じゃあいったい何のための、誰のための結果なんだろう?
だから私は逆張りをしよう。反対のことをしてみることで、確かめようとしているんだ。
みんなが結果だと言うのなら、私はプロセスに重きを置こう。
みんなが動きまくるのなら、私はじっと動かず内省しよう。
みんなが話すのが大事だと言うなら、私は聴くことに集中しよう。
天邪鬼は楽しいぞ。
世の中に対して斜に生きるのは、最低で最高だ。
さあ、逸脱しよう。科学もスピリチュアルも、ビジネスもボランティアも、どうだっていい。
いつも斜に構えて、疑問を持って、霞を掴みにいくんだ。蜃気楼を探しに行こうぜ!
誰かの希望の光になんてなりたくない。
勝手に夢とか憧れとか背負わせて群がっていくなよ。鬱陶しい。
光が欲しけりゃ自分で光れ!
私は邪道を行くんだ。
舗装された道なんてつまらない。最短距離を最速で行き来して、いったい何が楽しいんだ?
暗闇の中で草かき分けて、迷って同じところにまた戻って。
でも、それを繰り返すうちに、今とは違う場所に行きたいんだ。
ヒエラルキーの外れたところから人と関わろう。
対等にさ、上とか下とかいいからさ、ちょっと顔突き合わせて腹を割って話そうよ。
私が先に戻ってみるから、あなたも一緒にやろう。
らくだメソッドで学んでいるうちに、私はこんなことを考えるようになってしまった。最近は1枚のプリントよりも、その向こうにいる自分とずっと睨み合っているような感覚がある。
9/23 高-31(14分)19:15③
もっと計算ミスが多いかと思ったけれど、そうでもなかった。不安な時の方が計算ミスは少なく、できたという時ほど多い。でも、それって実際のミスの数じゃなくて、自分の見積もっている数字に対する多寡だから、それも結局のところ評価に過ぎないんだよな、と気づく。結構大きい気づきかもしれない
9/28 高-32(14分)15:27⑥
相変わらずミスは多いけれど、全部違うミスの仕方をしていたのでオッケーとする。確かに事実を見ることは大事だけれど、ミスをしたという事実を見ていてもなにも進歩しない。自己変容の場面ではどういう事実に対して意識を向けるのかということが大事になってくる。つまりの結果の事実ではなく、プロセスの事実に意識を向ける。
たとえば、同じプリントを7問間違えました。次にやったら6問間違えました。では、結局のところ「間違いが1問減りました」ということしかわからない。けれど、2回目のミスは「6問全部同じ問題を間違えました」だったら、もしかしたらその6問の解き方そのものをわかっていない可能性もあるのだ。もう少し深く掘り下げていけば、「同じ6問を間違えたけれど、間違え方は全部1回目とは違う」というようなことが起こっているのなら、問題ないかもしれない。
何度も同じプロセスを通り、同じミスをしているのなら修正が必要だが、違うプロセスを辿っているのなら、正しい答えに辿り着く可能性はある。つまり、どうしていいのかわからないというときは、結果の事実に対してしかアプローチしていないのではないか。だから、プロセスの事実に対してアプローチすることで、さらに進むのだ。
10/12 高-34(20分)21:13③
もう全部わかる。次にはいけるはず。次はミスも0を目指したい。ただし、その目標を「叶えなければいけないもの」としないこと。そこを目指していくけれど、叶ったところですごくもないし、叶わなかったところでダメでもない。ただ、事実だけをみる。
10/17 高-36(12分)19:15③
なぜ公式を最初に持ってこないのか。それは、具体的な数式がないと抽象へと上げられないからあると同時に、公式を知った上で最初から問題を解いてみたらどうなるか、ということが試されているのだ。闇雲に計算したのではこの設定タイムをおそらくクリアできない。でも、最初から公式を使ってみたらどうなるか? 時間は全然違うはず。つまり、2回以上やることが前提でこのプリントはつくられているのだ。凄いぞ!
10/21 高-37(12分)13:03⑥
全てのミスが約分のし忘れだった。例えば、テストだとしたらこれは「わかっていない」とされてしまう。だけど、私が本当にわかっていないのかといえば、2回目はできる自信はあるのだ。じゃあ、いったい何をもって「わかる」「わからない」を判断するのか。だって、私はただ単に忘れていただけ。では、テストで測っているのは理解度なのか、注意度なのか? 何なんだろう?
プリントをやった後に毎回書いている振り返りの中で、めぼしいものをピックアップしてみた。
1年9ヶ月の振り返りで書いたように、思考の抽象度がだいぶ上がってきたという自覚はある。
でも、今まで見えなかった世界が見えるようになったことで、だいぶ戸惑いも感じている。
この振り返りがかつてないほどに刺々しさを感じさせる文章になっているのもその影響だろう。
私は神経質になっている。今、直面している悩みから目を背けたい。
本当にそれができたらいいのに、習慣化した振り返りが許しちゃくれない。
なにがボトルネックなのかは自分でもうわかっている。
恐怖だ。
ある疑念が私の頭を支配している。
もしかして、できない状態に甘んじていないだろうか?
できないことを免罪符に使っていないだろうか?
できないことは苦しいかもしれないが、同時に気楽でもある。自分には伸び代がある、と言い訳に使えるからだ。でも、自分の上限を見てしまったら、もうそれは通用しない。
だから、できないままでいたい。
そんな気持ちが身体のどこかに残っているのかもしれない。
私は恐い。自分の身に大きな変化が訪れるのが。
どうにかして、自分をそのままにしておきたいと踏ん張っている。変化を望む気持ちと変化への恐怖が引っ張りあって、どうしようもない苦悩を生み出している。
笑って見せたって、いい人ぶったって、いっつもビクビクしている。
誰よりも臆病で、何重にも殻を被って自分を守ろうとしている。
せっかくらくだメソッドや日々の生活の中で、その殻をはいできたのに、またその殻の中にこもってしまうのだろうか?
まだ、その時じゃないと言うんだろうか?
これが人生の境目。
どうなるかは、これからの時間でわかるかもしれない。
次に起きる変化は、きっと私の生活を一変させるものとなるだろう。
なんの根拠もないけれど、確信じみたものがあるのだ。
その羽化は、3ヶ月後までに起こっているだろうか?
起こしていきたいが、さてどうなることやら。(2017年11月27日)
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これを書いた時期は多忙と責任感によるストレスで荒れていたので、あまり文体などは気にせず読んでほしい。
習慣化することはたくさんの恩恵があるが、習慣になったがゆえに削ぎ落とされるものがある。望遠鏡を覗き込めば足元が見えなくなるように、どうしたって盲点が生まれるものだ。
盲点を一番少なくするためには変化をし続けることが重要なのかもしれない。常に移動して、周囲に気を配れば、盲点は少なくなるだろう。
けれど、ずっと同じ場所で定点観測をすることで初めてわかることもある。
つまり、どこにも正解なんてものはなくて、あるとすれば「自分がどんな風景を見たいと願うのか」ということだ。
みんなが結果だと言うのなら、私はプロセスに重きを置こう。
みんなが動きまくるのなら、私はじっと動かず内省しよう。
みんなが話すのが大事だと言うなら、私は聴くことに集中しよう。
逆張りをするのは、おそらく僕が他の人が見ないものを見てみたいからだろう。
肩を並べて「綺麗だね」と共感するのもいいけれど、反対側から「おーい、そっちにはなにが見えるの? こっちは……」と話し合いながら、全体の地図を作っていく方が楽しいと感じる。あなたはどうだろうか?
読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。