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とじたの、ひらいた
わかりづらいつながりをどう増やし、深めていけばいいんだろうか。
理由をつけて会わなければいけない状況に、胸が張り裂けるほどではないが、雪が積もりように寂しさを感じる日々が続いていて、それは繋がりが薄まっているからだと感じていた。
けれど、それは全ての人が感じているわけではない。以前よりもイキイキとしている人もいる。
その違いはなんだろうと考えていて、おぼろげながら浮かんできたのが、「わかりづらいつながり」があるかだった。
まず、わかりやすいつながりとは、なんだろうか。
要素はいくつかあるだろうけれど、コミュニケーションの手段と頻度(会う、電話、メールなど)が多いこと。そして、属性が似ている(所属、趣味など)こと。パッと思いつくのはこの辺りだが、もっとあるだろう。
このつながりはその要素が失われると共に薄まっていく。
一方で反転してみると、「わかりづらいつながり」とは、なかなか連絡を取り合わない、関係性の薄い人と、いかにつながりを感じられるか、なのかもしれない。
たまに会って、二言三言話す人に親しみを感じられるか。テレビやyoutubeなどで見た人の姿に励まされるか。
そもそも頻度や属性とは異なる部分で、相手とのつながりがある。ゆるくか細い糸のようなつながりを強く深く感じられる。
それは自分自身がひらかれているかに左右される。
共同生活をしていたり、仕事を一緒にしていたりすると、自他共になにを感じているかとは関係なく、交流する機会が生まれる。だから、必ずしもひらかれている必要はない。
しかし、強制力も持続性もない関係性においてつながりを維持しようとする時、まずひらかれていなければ、相手から受け取って共感したり、そして自分を差し出したりすることができない。
自己開示とは、釣り針を垂らすことに似ている。自分が感じ思ったことを伝えることで、無作為なその釣り針が偶然他者に引っかかる。場合によって、自分が魚となって、食いつくのだ。
だから、わかりづらいつながりを増やすために、僕はより自分をひらいてみようと思う。
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