自分の無力さを繰り返し味わう尊さ
僕は無力だった。
挑戦しようとしている人達に伴走していたところで、直接関係のないトラブルを起こって、1人の心が折れてしまった。
「もうやめる」
吐き捨てるような言い方だった。
一旦くじけそうになったところを、せっかく持ち直したところだっただけに、やるせなかった。僕になにかできたことがあったんじゃないかと思ったけれど、手の届かないところで起こった出来事に、手の施しようもなかった。
だから、僕は無力だった。
近年の僕は、できることが増えていた。一生できないと思っていたことが、いくつもできるようになった。
そして「自分を変えられたのだから、他人も変えられるのではないか」といつの間にか思ってしまっていた。
でも、やっぱり他人は変えられなかった。
これまで何度も辛酸を嘗めてきたのに、また思い知る羽目になった。
体験と経験を重ねて、試行錯誤を繰り返せばできることが増える。だから、他人も変えられると思ってしまう。でも、せいぜいが他人を動かすこと止まりで、変えることは決してできないんだ。
もし変化があったとしてもそれは本人の持つ意思と力によるもので、その場面にたまたま居合わせた自分の功績じゃない。
僕はどこまでも無力だ。
それを繰り返し噛みしめる。
まだまだ未熟な僕はそのことを悲しく思っている。けれど、取り乱していないのは、知っているからだ。
自分の無力さを認めるのは、裏返せば本人の変化する力を信じることだって。
そして、1人1人の変える力を信じるってことは、僕のこの考えすらも、いつか変えられるかもしれないと信じることだ。無力さを悟ったその先に、希望はあるのかもしれない。
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