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立ち戻る理念がなかった

 頼まれるだけで揺らいでしまう。僕の決断はその程度のものだった。

 1つのメールをいただいた。簡単にいうと依頼だ。
 数年の付き合いがあり、過去の経験もあって「やってみない?」と言われた。

 正直、僕はやるつもりはなかった。今年は自分を取り巻く環境も少し変わっていて、身動きが取りづらくなっている。ただ、そんな問題は些細なことでしかない。

 1番思っていたのは、「自分がふさわしくないのではないか?」だ。そこで触れ合う人達との熱量や感動が違う。どこか僕は醒めていて、「凄い」とは思ってものめりこめず、話についていけず、困惑していた。

 だから、その対象に自分がどれくらい熱量を持っているのかを知りたかった。

「やっぱりやりたい!」
「興味なかった」

 時間の重みがどちらかに振り切ってくれるから、一旦距離を置こう。そう決断した。そんな折のメール。
 僕はいともたやすく揺らいでしまった。
 チャンスを与えてもらえるならば、それに飛び込んでいくべきではないか? 最初に決めたことを貫徹するべきではないか? とせめぎ合う。

 そんな葛藤の中、そういえば「ふさわしい」とはどういうことだろうかと疑問に思った。

「ふさわしい」とは

 アイドルの熱愛・結婚話が持ち上がると、「相手がアイドルにふさわしいか否か?」みたいな話がファンの間で持ち上がる。どちらの意見もあるんだけど、結論が出るわけではなく、外野は野次馬でしかない。

 大事になってくるのは本人間の中での「ふさわしさ」の認識なのだ。
 だから、今問題なのは僕が「ふさわしくない」と思っていることだ。なぜならば先方は僕がレベルに至っていないならば、そもそも話を振ってくることはないのだから。

 やる前から自分こそふさわしいと思うことがどれだけあるだろう?
 自分の中にいくつあるかを探ってみたけれど、1つもなかった。

 だから、それはやりながら身につけていくものなのかもしれない。

迷うのは理念ないから

 どうしてこんなにも迷うのだろうか?

 その理由を考えた時に、自分が望む方向性が定まっていないことがわかった。つまり、自分の行きたい方向と同じであるならば迷う必要もなく飛び込めるし、そうでないなら切り落とせる。

 けれど、迷うということは方向性自体がぶれているのだ。

 企業が重大な選択をする時に立ち戻る理念が僕にはまだしっかりと根付いていなかった。いま、それを改めて考え直している。

 僕はこれからをどう生きたいのか?
 あなたはどうだろうか?

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