見出し画像

らくだメソッド6年の振り返り

 この振り返りは、僕が6年間のらくだメソッド®︎の学習を通して、学んだことだ。

 2015年11月かららくだメソッドの学習を始めた。
 始めて間もない頃は、3ヶ月ごとに振り返りを書いていた。当時は発見の連続で、これまでの人生で背負いこんだ望まぬ荷物を捨てていく旅だった。
 繰り返される気づきはしかし、いつしか当たり前になり、前にも見たような体験の焼き回しになった。
 より微細になる変化を、他者に伝わるように言語化することは難しくなってきた。だんだん書く間隔は長くなり、2020年8月を最後に振り返りを書くのをやめた。

 それを今になって書くのは、6年が経過したことと、僕自身の身に起こった大きな変化だった。

らくだメソッドとは

 らくだメソッドは、平井雷太氏が自身のお子さんのために作り、改訂しながら作り上げた自学自習のプリント教材だ。その特徴は「なに」を「どのくらい」かはもちろん、解答から採点・記録まで学習を自分で管理する。それによって、自学自習が可能な教材だ。

6年経った現在地

 2021年12月現在、僕は今、高校3年生の単元をやっている。もうこの学習の終盤に差し掛かっているといって過言ではないだろう。とはいえ、最近は1枚のプリントをクリアするのに10枚近くかかることも珍しくなく、全てを終えるのはまだ先の話だろう。

 今の自分の状態を語るとすれば、それは「凪」だ。毎日学習できているわけでもなければ、大きく間が空くわけでもない。原則1日1枚やるのだが、週に3、4回程度を淡々と続けている。
 やっていて、感情の動きは驚くほど少なくなっている。なかなか理解できない問題にぶつかった時も、「わからないな」と思うだけだ。
 苛立つ必要はない。どうせ、やればできるようになる。これまでの道のりで築いた実感が、僕の焦りを鎮めてくれる。

 一方で、できた時の喜びもそれほど大きくない。「できたなぁ」としみじみ感じて、また次のプリントに向かう。できるようになる過程は楽しみながらも、苦労したからとできた喜びに浸らない。

 らくだメソッドに取り組んでいて、一喜一憂することはほぼなくなった。
 後ろを振り返ってみれば、着実に自分が進んできた事実が残っている。他者からの評価やありがたい格言にすがらなくても、自らの体験を拠り所にできる。自分で自分に「大丈夫だ」と言えるのだ。それに相応しいだけの量が溜まっている。
 基準となる量は、人によって異なるだろうが、1年やそこらでは手に入らないのは確かだろう。

 当たり前に学ぶ

 諦めない。投げ出さない。判断を保留する。
 そうして自らの意志で苦境でも留まる選択ができるようになったのは、らくだメソッドの学習によるところが大きい。厳しい状況になると逃げ出していた僕にとって、どれだけ救いになったことか。
 あらゆる物事は、継続なしには語れない。素晴らしい才能に恵まれていたとしても、3日坊主では10年選手に遠く及ばないのだ。
 意志の力は限界があって、長く続けようと思えばこそ「頑張らない」ことが大事になる。学びを特別なものとして捉えると、いつも腰を据えて「よし、やるぞ!」と気を込めてなければできない。そうではなく、息を吸うように当たり前に学ぶ。それが少しずつでも実現できていることに、僕は喜びを感じている。

「なにを得たいのか」の発見

 現代のように、スピードが求められる生活していると、素早い判断と評価を求められる。それが習慣化しているために、早くなにかを成さねばと焦ってしまうが、誰にも迷惑を書けない自分の学びにおいては、じっくりと繰り返し迷いながら行ってもいい。
 このプリントで学ぶことにどんな意味があるのか、不安になった時期もあったが、自分のやっていることにもっともらしい意味を問う必要なんてない。少なくとも、自分が望んでやっていることに関しては、「なんかやりたい」で行動する理由は十分なのだ。
 将来に役立つとか、社会に還元するとか、もちろんそういう目算と志は持っていていい。ただ、それとは別に、他者のしがらみから解放された場で、自分と向き合いながら取り組むことを持つ。

 そうすると、思わぬものが得られる。
 この「思わぬ」が重要なのだ。「思わぬ」とは、すなわち自分が意識していなかった僥倖に出会うことだ。

 年を重ねると、(的中率はさておき)経験から予測がつくようになる。すると、ものや体験に対して、事前に「なにが得られるか?」を考えてしまう。
 しかし、自分がなにを欲しているのか、僕達は実のところわかっていないのだ。
 ブランド品を欲する時に、純粋にその商品を良いと思うのか、見せびらかしたいだけなのか、はたまたそれを購入できるだけの経済力を実感したいのか。本心を自覚していないから、実際に手に入れたとしても満足できない状況が起こる。

 だから、その行動から「なにを得られるか」と青写真を描くのではなく、行動を通して「自分がなにを得たいのか」を発見する。そんな旅だったのかもしれない。

 弱さを抱えながら自信を持つ。

 かつて、僕は「自信はないが、自信を必要としなくなった」と書いた。

 当時の僕は、自信を「実績に裏打ちされた自分への信頼感」のような意味で捉えていた。現在から過去を見ていたとも言えるだろう。
 今、僕が考える自信は「どんな現状であれ、未来を変える力が自分にはあると信じること」だ。それは上空の視点から過去、現在を捉えながら、未来を見据えていると言えるかもしれない。

 その自信が身についたことで、1番大きいのは、自分の「弱さ」を認められるようになったことだ。
 かつての僕の考え方では、自信を持つためには、「弱さ」を否定しなければいけなかった。
 できないこと、わからないことからは目を背けて、他者には見えないよう覆い隠さなければいけなかった。多くの人が大なり小なり、同じような状況を経験しているかもしれない。矛盾と後ろめたさがあり、少しずつ酸素を失っていくような、苦しさがあった。
 しかし、今や僕はできない弱さを抱えたまま、自信を持てるようになった。そのおかげで自分の未熟と正面から向き合えるようになってきているし、まだまだ甘いとはいえ、他者を頼れるようになってきている。

 この6年、できないこととずっと向き合い続けてきた。
 けれど、ここにきて僕は自分のできるようになったことばかりを書いているのだから不思議なものだ。
 できないことさえわかってしまえば、それ以外のことは概ねできるということだから。

そして、これから……

「子どものうちに、こんな学びに出会いたかった」という人がいる。つい最近もその言葉を聞いて、かつての僕も感じていたのを思い出した。

 自分で決められて、選択と行動の結果が、ちゃんと自分に跳ね返ってくる。そうした場はまだまだ少ない。

 だから、やることにした。安心して失敗できて、一緒に伴走してもらえる環境を自分も作る。手始めに、まずは自分から行動を起こしてみる。

読んでいただきありがとうございます。 励みになります。いただいたお金は本を読もうと思います。