見出し画像

麗しき者 第8話

8.試練はいつも突然に
 翌年、予想もしない災害が東北を襲い、その余波が東京にも来た。芝居などのエンタテインメントがバッシングを受け仕事が急になくなった。演劇学校の収入はそこまでだったし、尚美はまだ完全復帰は出来なかったので、俺は知り合いのカレー屋でバイトを始めた。まさかまたこの歳でバイトをやるとは思わなかったが、生活のために選択肢はなかった。
 尚美がある日言ってきた。「幹太に弟か妹必要じゃない?」「え?」「もう一人どうかな?わたしももうそろそろキツくなるし。」「今は無理だろ。こんな状況で。」「それはわかってるけどさ、これから好転していくかもしれないじゃない?」「これからって…俺は今の生活でいっぱいいっぱいだよ。」沈黙。「考えといてね。」というと尚美は寝室に消えていった。ハイボールを一気に飲み干す。「考えといてね。って言われても。」
 それから何度かそんなやり取りがあったが、俺の変わらぬ態度を見て尚美はそのことについて何も言わなくなった。そして彼女の態度が冷たくなっていくのがわかった。それを見て見ぬふりをする俺がいた。
 演劇学校の卒業式と卒業公演の日、先生達と卒業生の何人かといつも行く居酒屋で打ち上げをした。卒業公演で自分の教えていた生徒達がとても良い芝居をしていたので気分が良かった。もちろんあの臼倉もいた。終電がなくなり、BARに何人かで移動し赤ワインを開けた。何を話していたのか覚えていなかったが何だか楽しかった。家に帰りたくないというのもあったけど。知らないうちに臼倉と二人になっており、もう午前2時を過ぎていた。「槇は始発まで待つの?」「そのつもり。」「良かったらうちで飲み直さない?」「あー…」気づいたらタクシーに乗っており、気づいたら臼倉の部屋の中にいた。そして、俺らは一線を超えた。
 夢を見ていた。尚美と幹太が手を繋いでいる。尚美はキャリーケースを左手に持って幹太がリュックを背負って、俺から少しずつ離れていく。声を出そうとするが出ない。彼らは雲の中に消えていくように見えなくなって行った。俺は泣いていた。涙は現実の世界でも出ており、はっとして目が覚める。隣には裸の臼倉がいる。「やばい!」時計を見ると午前9時30分。「やばい!やばい!」急いでシャワーを浴び着替えた。臼倉はまだ寝ている。「お邪魔しました…」と小声で彼女に別れを告げる。中野駅から総武線に乗り新宿で小田急線各駅に乗り祖師ヶ谷大蔵へ。駅から猛ダッシュして家に帰る。家には鍵が掛かっており、尚美はいないみたいだった。ガチャ、玄関を開ける。人の気配はやはりなかった。キッチンのテーブルの上にメモ書きがあった。
「しばらく実家に帰らせていただきます。幹太も連れて行きます。しばらく連絡しないでください。尚美」
二人は後ろ姿も見せずに雲の中に消えていった。正夢だったんだ…その数ヶ月後、俺と尚美は離婚した。

#創作大賞2024
#お仕事小説部門

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?