見出し画像

宗教とのお見合いに失敗しました

タイトルの通り。親が信仰している宗教と、仕事を通じて見てきた宗教に関する諸々の話。

私は宗教を「親の指定したお見合い」みたいなものだと思っている。で、私はその宗教の教えと相性が良くなかった。人を救うはずの宗教と一緒に生きたら、どうしようもなく生き辛くなったという笑い話。

私はある宗教に熱心な母親のもとで育ちました。
その宗教は、大元になる宗教があり、そこから一人の宗教者(所謂開祖)が独自の見解で宗教を捉えて広めたものです。開祖の先生はまだ存命でいらっしゃいます。久々に調べたら新興宗教一覧に入っていたので、新興宗教扱いらしいです。ある県に本部があり、大きな会館が建つ程度には信仰者がいます。

生まれた時から、母親は自身が信仰する宗教に関する集まりに私や妹を連れて行っていました。母親自身も、自分の母親や周りの人がその宗教を信仰していたからか、疑問に思っていなかったようです。それは今も変わらず。

幼少期から小学校高学年くらいまで、よく週末の13時から16時とか、あとは20時くらいから22時半くらいまで、お寺の本堂や公営施設の部屋とかに集まって、正座で先生の弟子?にあたる方々からありがたい話を聞いてました。

正直なところ。小さい頃なんて遊びたいばかりで、休日の昼過ぎのゴールデンタイムに正座して、よく分からない話を聞いているのが苦痛でしかなかった。もちろん、夜の説法もな。眠くて、とにかく畳の上で折り曲げている足が痛いんです。話は当然分かりませんでしたしね。おかげで今も正座をするとその時のことを思い出すので、正座が苦手です。

それでいて、周りの信者の方々から、小さい頃から信心深くて良い、きちんとお話聞けて偉いねとか言われるんですよ。母親はニコニコでしたが、こっちは半笑いでした。本当は言い返したかったんだよな。

話なんて、ほぼ聞いてません。行かないと隣の母親が不機嫌になるから怖いんです。そもそも行かないって選択肢は提示されてなかったんだ。

これだけならまだ良かった。この宗教どうなん?とか、行くの面倒くさいだけで済んだ。本当の問題は、母親の顔色を伺った結果、中途半端に、真面目にこの宗教を学んでしまったこと。読んでたよ、子供向けの宗教の本。それから宗教の考え方を日常や、自身の思考の中に組み込んでしまったこと。

結果、どうなったのか?

自己肯定感が壊滅した、希死念慮まみれの人間が育ちました。

私は宗教の教えの中にあった、「人の本質」の部分を重視して自分を形成してしまった+そのくせ宗教の教えを聞くにあたる諸々の辛さで完全には宗教に染まりきらなかった(時間拘束・興味がないことを無理やり行う不快感)ので、悪いとこどりをしてしまったようです。

「全ての出来事は自分に原因がある」
「人は罪を犯さずには生きてはいけない極悪人である」

この2つの教えが私の思考の根本にあります。宗教という種を撒かれて、環境が水をやり、私の中に育った、今となっては呪いのような考え方です。

全ての出来事は自分に原因がある。この教えの何が私と相性が悪かったって、この考えが根底にあることで、誰かのせいにしたり、怒ったりすることが出来なくなってしまいました。心の底から思ったことを、打ち消す思考が生まれるようになってしまった。

例えば、誰かが掃除をサボったとする。その代わりに自分が掃除を余分にやらないといけなくなった。この時、本来はサボった誰かに怒りが向くはずなんですよ。サボったせいで、自分が酷い目にあったって。

これが、「原因は自分論」が頭にあることでどうなるか。

事前に引き留めたり、確認をしておかなかった自分が悪い。自分が掃除をすることに居合わせたから、こうなった。だから、サボった人だけを恨むのは筋違いだ。

本来の自分は怒ろうとしていても、顕在意識ではこうなって打ち消しにかかる。起こった結果の原因が自分にあるなら、何が起こっても他人を怒る権利はない。

今まで「全然怒らないよね」とか「人のせいにしないよね」と散々言われてきましたが、ただ単にこういう宗教思考が思考の先端にあっただけという。心のどこかで自分が悪いって思ってしまうから怒れないだけでした。そんな崇高なもんでもない。

極論の例を出すなら、交通事故で赤信号で止まっていて追突されても、悪いのはそこにいた車です、とか。DV夫に振り回されて、人生真っ暗な奥さんですが、結婚を了承した奥さんが悪い、とか。そういう話になるんですが、そういうことなんですよ。本当にそう教えている。そこに居合わせる縁があったって。それこそ、過去や前世で他人に同様のことを行ったからそういう目に合うんだ、とね。そもそも過去や前世があったとして、どれが原因だよ、分かるかそんなもんって話なんだけど。理不尽オブ理不尽。

で、こういう自責を繰り返したらどうなるかって、何かあると自分のせいだって過大妄想を繰り広げるようになります。自分と直接関係ないことでもな。そこに「居る」だけで、自分が悪いと思うのさ。親同士の喧嘩も、雰囲気が悪くなった友達のグループも。それこそ、私が一緒に居てとても辛かった彼女との数年間さえ。

全部、そもそも私が生まれて、其処に居たから起こったこと。頭の底からそんな考えがこんこんと泉のように湧いて出る。だから、居なくなりたいとか、生まれるべきじゃなかったとか、希死念慮も枯れることなく育っていく。自己肯定感なんてものは雑草よろしく踏みにじられて死んだよ。だって、宗教曰く私は救いようがない極悪人らしいもん。

宗教の教えって、結局、自分にとって都合の良いことを取り込んでいくことだと思います。ちなみに、私が頭を抱えている上記の教えには続きがあって、本当は「全ての出来事の原因は自分にある。だから良いことを進んで行いなさい」というのが全文なんです。けれど、私はその良いことをする云々の以前に、全ての出来事は自分に原因がある、そちらに目が向いてしまって、頭に深くインプットされてしまった。

欲も罪とかいうもんだから、睡眠欲や食欲筆頭に、性欲、名誉欲その他諸々の名前のつけきれない欲に塗れた人間は極悪人。自殺は自分が死ぬことではなく、自分で何かを殺すこと。他殺は他を殺すこと、そして他の生物が死ぬことを楽しむ心も罪。だから、肉も魚も食べるだけで毎日罪を重ねていく。

心で思うことが最も重い罪である。

罪に塗れているから、信仰しなさい。
そうしたら極悪人である私達を救ってみせる。

私が聞いてきたのはそんな教えでした。
今でもちょくちょく誘われる、と言いますか母親から勧められる。余裕がないので勘弁して欲しい。むしろ今、聞いたらそれこそ自分が死亡する。

おかげさまで、自分の考え方によって人生ハードモードです。今、何とかして自分の思考を取り戻すために四苦八苦しているところ。頑張ろう自分。


そんな宗教思考を持ったまま、私は成人して、葬儀の仕事に就きました。宗教を切ることが出来ない業界にいたわけです。そこで亡くなった人と宗教者の人と沢山出会いました。

葬儀は、多くの人にとって滅多にない経験です。
生涯の中であってほしくないことの筆頭でしょう。
当然、馴染みがないから、知識はない。
その時がやってきて、どうしようと困惑する。
そういうものだと思います。
それでいいと本気で思います。

その、胸に抱えた困惑を軽減して、別れを惜しんだり、悲しんだり、思い浮かぶことを目一杯感じてもらうこと。後に感じるかもしれない後悔を少しでも減らして、先に進む足掛かりにしてもらうこと。

私は葬儀をする上で、そんな思いを持って仕事をしてきました。自己肯定できる、信念というものが形を取るなら、私は葬儀を第一にあげる。だから、今、一度離れた葬儀の場に戻ることを考えているわけですが、その話は割愛。

葬儀は沢山の人が関わる分、揉め事も少なくはありません。規模、呼ぶ人、本家本元、地域柄、金額、香典をもらうもらわない、数えきれないほど、揉める種はそこら中に転がっている。その揉め事の一つに宗教も当てはまります。

例えば故人様だけが別の宗教だったとか。無宗教の喪家に外部がしゃしゃり出て、自分の宗教を押し付けたりとか。通夜のお勤めの後に、別の宗教の宗教者がお経をあげにきたりとか。どの宗派で葬儀をするかで、打ち合わせ早々に大喧嘩を始めた家もありました。

そんな姿を見ながら、今、本当の意味で、宗教の教えを理解して信仰する人たちはどれくらい居るんだろうなと思っていました。

葬儀を通じて見る宗教は、亡くなった人をきちんと送る出すための手段になっていて、人の人生を救うものには到底見えない。むしろ、争いの種になっているように見える。多様性を謳う世の中で、自分を表現して、他人も認める。そこからかけ離れているものだと思う。

だって、それなら戦争なんて起こらない。
みんな、幸せになっていなければおかしい。

宗教があることで、得をする人がいる。
だから、ずっとそこにある。
救われる人がいる一方、同じくらい宗教に苦しむ人がいる。そういうものだと思います。宗教って。


我が子に、自分の信じる宗教を教えようとしている方々に届いて欲しい。

宗教の選択権は子どもに渡してほしいってこと。
それが信仰する宗教そのものや関係する人達に泥を塗りたくないなら尚更。

宗教に対して、恨みや嫌悪感を抱かせたりしたくないなら、あなたの背中で、言動で黙って語ってほしい。ぜひ、宗教の教えではなく、あなたの存在そのものを仲人にしてほしいです。

その姿を良いと思い、尊敬に値する、見習いたいと思ったなら私達は自分から信仰するだろうから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?