『ブルーノ・ムナーリ』と『早稲田大学建築設計課題』を比較した役に立たないが意味する触感性の射程について


 

概要
「ぞわぞわする」と形容される感覚である触感性を促す作品・プロダクトの考察を行う。題材としてブルーノ・ムナーリ「役に立たない機械」と早稲田大学の設計演習「役に立たない機械」の参照を行い、それぞれの背景には<創作媒体の制限からの昇華>、<目的なき合目的の設計>の異なる文脈があり、これらが触感性があることが妥当であるかを検討するにあたってモノの内在的要因と、鑑賞者との外的要因の考察を行った。そして触感性の成立要因は<制作>と<提示>の両方が鑑賞者に対して身体投影を促すことで成立するとした。

導入
触感性には機能的ではなく身体的な緊張感があるところを立脚点として2人の考察を始める。

1.ブルーノ・ムナーリ(1907-1998)はイタリアの画家にして、デザイナー、さらには絵本を多数制作し、子どものための造形教育にも力を注いだ表現者である。。なかでも『役に立たない機械』は彼の触感性がもっとも表れている作品であり、『役に立たなさ』が何が要因となって構成されているか検討を行った。

役に立たない機械

ムナーリを参照する上で背景として押さえるべき点は著書「芸術としてのデザイン」にも上げられるように芸術運動を出自にしながらも「役に立たない機械」など批判的に芸術を捉え創作手法のパターン化を積極的に行った点である。これらはムナーリの手掛けたブックデザイン、独自の教育メゾットにも援用された。パターン化の例として晩年の著書「ファンタジア」では存在しないものを作る手法としてオッペンハイマーの<毛皮のカップ>や日本の盆栽、アラブの装飾らのエッセンスの抽出を行い、芸術の発する魅力を児童教育などに援用を行った。しかし、幼児教育での芸術手法の応用の多くは絵本や絵の描き方などに応用され触覚性は顕在化したが触感性のもつ無目的な緊張感について喪失したといえる。

ムナーリの生涯を追うと最前期の段階から作品の構造捉えをそれを克己しようとする態度がみられ、最前期はイタリア未来派の画家として活躍し運動ーmovementを絵画として再構成する作品がみられる。この検討が役に立たない機械の伏線につながる。しかし芸術運動の停滞とともに未来派と距離をとるようになった。前期には作品タイトルを一覧すると「考古学のアイデアを美術領域に取り入れる」「みんな美術にたどり着きたかったから」など意識的に芸術を批評的にとらえ、一定の距離を取りながらも画家で培われた力をパターン的に用いて汎用性のあるものにしようとする姿勢が見られる。

1-2:ブルーノのいた文脈における<役に立たない>

ブルーノの「役に立たない機械」の役に立たなさはモノの機能性を否定し運動性を前景化することにあり、その背景にはイタリア未来派の掲げる機械の賛美の時代背景とそれに対するムナーリの冷ややかな態度の表明が前提にある。彼は制作するメディアとして彫刻を選択して芸術姿勢を反映した彫刻を行った。その前提をもとにすると彼の作品には芸術教育で培われた身体に刷り込まれた創作手法を背景にしてそれを克己しようとした<創作媒体の制限からの昇華>としての触感性が表出化がされている。


2.早稲田大学建築設計課題ー役に立たない機械展

 早稲田大学建築設計課題には「役に立たない機械を作ってください」というものが毎年あり、タモリ倶楽部で特集されるほど注目され「言葉にできないけど、なんか魅力があると思わせる」作品が作られる。この課題について指導教員である仲谷礼二は「役に立たない機械を自作する課題はカントによる美の定義「目的なき合目的」の翻訳であり、美的状態を工学的手続きによって表れ出さしめようとするタフな課題であると述べた。これは設計とは特定の機能を果たすためだけでなく、機能以外の変数を見つけ操作・検討を行い手続き的な完了を要求している課題といえる。そこで制作された作品の講評の分析を行い「目的なき合目的」を明らかにし、ムナーリとの比較を行い役に立たないを顕在化する。

2-2.合目的性の発見

この課題がムナーリと大きく異なる点はモノづくりの手法に設計を採用するところにあり機能以外の変数を見つけ検討・操作を行うことで情感的効果=触感性をもたらすことが要求される点である。反対にムナーリの場合は彫刻・インスタレーション・絵画などメディアに固有の制限を克己・昇華することによって絵画「陰と陽」でみられるような触感性が創出されているといえる。

陰と陽


そこで設計演習の役に立たないの原因がどこにあるか3作品の考察を行った。「走らない車」「救えないお玉」「1口タップ」には機能以外の設計変数として、「期待感の裏切り」「身体所有感(body-ownership)」「使用途の否定」などの変数が内在しており、それらを検討・操作することで目的なき合目的性を果たそうとしている。しかし作品の触感的な体感の強弱には差があり、作品の内在的要因以外にも、展示法など提示する外在的要因によって感じとることのできる差が生じ、内外要因両者に身体性:自己投影感の内包が求められる。


中間的なまとめ

両者の作品の性質には「役に立たない」というタイトルが付いているもののアウトプットされる触感性には緊張感や期待感など同質な情動感覚と、経てきたプロセスの異なりが生む文脈上の解釈が両者の線引きを行っている。それらの背景は<創作媒体の制限からの昇華>と<目的なき合目的の設計>があるからだといえる。

まとめ

これまでの考察をまとめると
1、ブルーノ=ムナーリと早稲田大学設計演習のそれぞれの「役に立たない」は<創作媒体の制限からの昇華>と<目的なき合目的の設計>と異なるプロセスを経た結果であり、機能の否定が触感性をもたらすわけではない。
2、触感性は情動効果の一つであり内外的に身体的な要因変数を操作することで表出しうる:想定の裏切り・身体所時感の移動・固有感覚・場の支配・ゆっくり動く
3、触感性を構成する手法は2で挙げた要素をモノの設計と鑑賞者との間での提示の両面での検討が必要である。


追記
ものづくりの批評として成立させるにはmaker fairや藤原麻里菜の頭の悪いメカにも触れるべきだとも思ったので触りを書く。現代の「役に立たなさ」を冠しているコンテンツは他の情報コンテンツとのコントラストによって成立している状態にある。前提にあるのはメディア上の2次情報として触れることが前提にあり、そこには身体投影性より<強いコントラスト>が重要であり、結果としてモノづくりのソフト=サービス化が進んでいる。これはモノづくりが多様なメディア表出を前提に構成されることが有利であることを支持するものだが、そこに身体投影する触感性はない。しかしソフトの身体投影性を検討することが必要なのではなく、ソフト+ハードの身体投影性を検討することが重要であり、この点において設計演習とテレビ番組として成立している早稲田大学の設計演習は秀逸であり触感領域の他のカテゴリーとの分水嶺を定めるのに有用な視座をもたらしているといえる。


参考文献 
ムナーリの機械 ブルーノ=ムナーリ
ファンタジア ブルーノ=ムナーリ
役に立たない機械論の世界 群像2017・10月
属性 Attribute 佐藤正彦


触感領域と役に立たないの関係性については以下の記事を参照してください。
https://note.mu/kirinchang/n/nfe5d5717c4da


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