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『オートクチュール』が説教抜きで教えてくれる労働の意義

 昨今は「働いたら負け」などと うそぶく若者たちが増えていると漏れ聞くが、そうしたしょうもない連中を客席に縛りつけてでも観せてやるべき映画がこれだ。
 エステル(ナタリー・バイ)はクリスチャン・ディオールのオートクチュール部門で働くお針子たちのトップ。ジャド(リナ・クードリ)は定職を持たない貧しい移民。ある日、バッグをひったくられたエステルは、それを返しに来たジャドにお針子としての才能を見出し・・・。

 監督・脚本のシルヴィ・オハヨンは、「高い職業倫理を保つことで確固たる居場所をつかんだ職人」対「社会に居場所を見いだせない若者」、「偏見のないお針子ナンバー2」対「移民嫌いのナンバー3」、「若きヒロインを育てようとする大人のヒロイン」対「娘に寄生するだけの母親」といった重層的な対称軸を設け、高級メゾンの繊細なドレスを縫いあげるように、丁寧に物語を紡いでいく。
(あまりに丁寧すぎるので、「シナリオ学校で習った教科書どおりに書いたみたい」との印象さえ受けるほどだが、もちろんそれはさしたる疵ではなく、全体としてはとても手堅い。)

 たとえばパリのアトリエでのエステルの言動からは、彼女が1つの仕事に長年打ちこみ、一流の知識と手業を身につけ、ひいては上司からの信頼や、部下からの尊敬を勝ち得てきた過程が透けて見えるかのようだ。
 そんなエステルなればこそ、見習いとして働き始めたジャドにも厳しく接するわけだが、他人から期待された経験のないジャドは、遅刻を繰り返し、時には手癖の悪さものぞかせる。希望を見出しにくい環境で育ったおかげで、はなから自分の人生をあきらめてしまっているのですね。

 ディオールのアトリエがあるパリの中心部と、ジャドが住む郊外の町サンドニとの対比にも注目したい。
 サンドニは、我々サッカーファンにとってはスタット・ド・フランス(フランスの国立競技場)の所在地としておなじみ。しかし近年は移民が激増し、北アフリカの一部と見まがうような光景になっているそうだ。
 拙訳著の『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』によれば、「パリの中心部にいる人々は、サンドニという地名を聞くと顔をしかめる。彼らは大聖堂がそこにあることは知っているが、決して訪ねようとはしない。スタット・ド・フランス・スタジアムを別にすれば、彼らがその地区に近づく理由は皆無に近いのだ」という状況になっている。ユダヤ教の施設がイスラム過激派に襲撃される事件も頻発しているとも。
 そうした予備知識を得たうえで鑑賞すれば、白人ユダヤ教徒のエステルがジャドのために何度となくサンドニに足を運ぶことの持つ意味が、より一層の重みを持って伝わってくることだろう。

 留意したいのは、エステルとジャドの関係が「富める者vs貧しき者」の構図では決してないことだ。努力と経験によって洗練を身につけたとはいえ、エステルも所詮はしがないお針子。収入も社会的地位も特に高いわけではなく、高級住宅地にも住んでいない。「安月給で金持ちのためにこき使われて、うれしいの?」と、ジャドにこき下ろされる一幕もある。
 だが、手に職をつけることで自らを高めてきたエステルの生き様は、ゆっくりと、しかし確実にジャドを感化する。そして仕事のために実子との関係を悪化させ、健康まで害したエステルを、逆にジャドを中心とした移民の仲間たちが支えるようになっていく。
 このあたりは『西洋の自死』の記述を踏まえると、いささか理想主義的にすぎる感は否めない。しかし映画というフィクションで理想を語って、何の支障があるだろうか。

 終盤近くまでボーイッシュなゴツい服ばかり着ていたジャドが、最後にシックな黒をまとった姿は、確かに魅力的だった。
「自分らしさを貫くこと」がもてはやされる昨今ではあるけれど、「変わること、踏み出すこと」も、人には――特に若い人には――同じように大切なんだよねと改めて思わせる一編であった。
「ウェルメイド」とは、まさに本作のような映画のためにある形容句ではあるまいか。

オートクチュール
HAUTE COUTURE
(2021年、仏、字幕:松浦美奈)


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