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コロナウイルス対策は功を奏したとしても、他の感染症をどうか忘れないでください


 本稿は、とある政党の議員さんの支援者向け会報誌にまた頼まれたエッセイの第一稿を入稿したものの、ご担当から「上役が『刺激が強すぎると言っている』とのことで掲載できません」と悲しそうな声色で電話を頂戴した没原稿を、有料メルマガ用に再編集、添削・加筆し、ご参考にしていただけるURLを付記したものです。

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 というわけで、以下本編。

 私が生まれた山本家は中央区・八重洲にあり、いまでこそ東京の玄関口として栄えたターミナル前の商業地として君臨していますが、私が命を授かったのはその八重洲の大通りから一本入ったところにある雑居ビルでした。どういうわけか、1歳のときにこの八重洲から引っ越しをするので祖母に手を引かれて号泣しながら親父の運転する日産グロリアの後部座席に乗り込んだのをよく覚えています。

 高度成長期がまだ夢を持っていた1975年ごろ、まだ2歳であった私は両親と一緒に霊園にいき、墓参りをしていた写真が残っています。墓前を掃除し、一家で手を合わせている写真です。そこの墓標に刻まれている若くして命を落とした親父の兄3人は、いずれも結核で、療養を余儀なくされるものの、闘病むなしく早世してしまいました。家事については何につけだらしない親父でしたが、とにかく家の窓の大きい間取りと日当たり、風通しにはこだわる男で、朝いちばんに窓を開けなければ怒る、晴れていたら布団を干さないと殴る、ジャイアンツが負けていると蹴っ飛ばすという気の短い古き良き下町の江戸っ子です。

 「そういえば、親父には兄がいたんだな」という話を身近に感じるようになったのは慶応義塾高校に私が通っていた頃です。バブル真っただ中のころ、授業で日本の近代医学の父、北里柴三郎さんと、彼に資金を拠出し「伝染病研究所」を設立することに協力した慶応義塾の福沢諭吉先生の授業があり、幼くして兄弟をみな亡くした北里柴三郎さんの人生と親父の過去がダブりました。似たような悲惨な体験をしたのに、北里柴三郎さんは優れた医学者として日本だけではなく世界の感染症対策をリードしたのに、うちの親父はなぜ不動産転がしてゴルフやヨット三昧の人生を送っているのか。

 転機はその直後にきました。当時、私は部活での野球部をやるほどの体力も技量もなかったので、地元の草野球を楽しむ程度のオタクだったのですが、そこでご一緒していた25歳のチームメイトが闘病の果てに亡くなったのです。病名は結核でした。数週間、体調を崩して練習に来ないなと思っていたら、どうも入院しているというので、みんなで見舞いに行こうとしたところ、ふだんは穏やかな監督から「理由は言えないけど、絶対に行くな」と、鬼気迫る表情で猛烈に止められたのを覚えています。

 喪服を身にまとったまだ若い奥さんが、小さな赤ちゃんを抱いて葬儀の列に並んでいるのを見たときは、胸が張り裂けそうなぐらい同情しました。そして同時に、私の父親がそれと言わずに墓参りを熱心にすることや、家の中に陽を入れ、風通しを良くする理由とは何なのか、ここで一気に悟るのです。感染症は怖ろしい。簡単に、若くて健康な人をも殺してしまう病気なのだ。遊び回っているだけのように見えた親父が、その悲しい記憶ゆえにとっていた行動とはこのことだったのか。

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神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント