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霧の区「ミノタウロスと薬指」

「おやおや、綺麗なシャツだね」
少年は湿度街の闇市でぽつりと座り込む白髪の婆さんに声をかけられ、立ち止まった。
逃げなければいけないのに、どうもその婆さんが気になって仕方ない。
少年はその婆さんに近づき、視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
婆さんの手前には、小さな灯篭のようなものが置いてあり、筆文字で「裏なゐ」と書かれている。
「これのどこが綺麗なシャツなんだ?」
少年は自分の来ているシャツを婆さんの眼前に見せつける。
「その赤は林檎と同じ赤。生命の色。禁断の色。真実の色。赤は美しいほかないのじゃよ」
「はは……そうかよ。これが綺麗だなんて婆さんの老眼ももう末期だぜ」
「わしはもう盲目じゃよ」
婆さんは細い目を開くと、その目は真っ白であり、うっすらと瞳孔があったであろう輪郭だけが残っていた。
少年は驚いた。
今自分が着ているものは、夥しい量の返り血のついた白いシャツなのだ。婆さんは盲目であるのになぜそれが分かったのかが疑問で仕方ない。
「その呼吸、盲目でなぜわかったと思っただろう?」
「あ、あぁ……」
「お前さん、その包丁から血が滴っておるぞ。わしは鼻が利くのじゃ」
少年はそういわれると、ハッと自分の右手を見た。
そこには途中で捨てようと思っていたはずの包丁が握られている。
その刃から滴り落ちる血からは、懐かしい母の香りがした。
「なぁ、婆さん。占い屋なんだろ?俺の未来を占ってくれよ」
「あぁ、いいとも。少し待たれよ」
婆さんはそういうと筮筒(ぜいとう)に入った筮竹(ぜいちく)を手に取り、ぶつぶつと呟き始めた。
筮竹の一本を筒へと差し込み、残りの筮竹を手慣れた手つきで振り分け、ケロク器に置いた。
「暗示は天火同人の五爻。勝利を意味している。この先にお前さんの大事なものがあるはずだ」
「本当か?」
「本当だ。わしの占いは外れない」
婆さんの言葉に、少年は少しだけ救われた。
占いなど今まで信じてはこなかったが、この婆さんのいうことは不思議と当たりそうな気がすると予感していた。
「おい!!!どこにいる!!!あの野郎!!!!」
少し離れた場所で、怒鳴り散らす声が聞こえ、少年の背中に悪寒が走る。
大斧を持った悪魔がやってきたのだ。
「婆さん、わるい、俺はもう逃げなきゃいけない」
「はやくお行き。わしはもう長くない」
「長くない……?」
最後の言葉に引っかかるが、それよりも今はあの悪魔から逃げなきゃいけない。
少年はその場からすぐに立ち、闇市の奥のほうへと逃げ込んだ。
「おい、婆さん。さっきあの野郎と話し込んでいたな?あいつはどこへ逃げる気だ?」
大斧を右手に握った悪魔が婆さんの前にしゃがみこみ、眼前で睨みつける。
「さあね。わしはただ占っただけじゃよ。どこに逃げるかまでは知らないね」
「ほほう、そうかい。あいつの占いの結果はなんだ?ミンチになって鼠の餌か?」
「いいや。あの少年には勝利の暗示が出ている。鼠の餌の暗示になるのはお前さんのほうだよ」
婆さんは歯のない口でけけけと笑った。
悪魔はその言葉に苛立ちを覚え、持っていた大斧を婆さんの頭蓋へと思い切り振り下ろす。
婆さんの体に綺麗に斧が入り、そのまま頭から局部にかけて一刀両断され、真っ二つに切り裂かれた。
婆さんの血で筮竹が真っ赤に染まる。
「汚ねぇ血だな」
悪魔はそう吐き捨てると、闇市の奥へと足を進めた。

少年は闇市から少し離れた、霧の区の路地裏に迷い込んでいた。
廃墟と化した雑居ビルに、蔦のように生えるアルミ製の煙管。どこからか生まれ出る生温かな上記に包まれるボイラー室のような様相の区域を人はみな「ラビリンス」と呼んでいた。
「はは、君、迷っているね」
霧の中から声がして、少年はそちらを振り向いた。
うっすらと人影が揺れているのが見え、その人影が大きく濃くなっていき、そして姿を現したのは、綺麗な金髪にクラシックなメイドの服を着た少女であった。
「ここは、どこなんだ?」
少年は少女に尋ねる。
「ここはね、ラビリンスよ。入ったら出られない霧の迷路。私も迷って出られないのよ」
「出られない?じゃあ俺はここに閉じ込められたのか?」
「そうね。半分正解よ」
「半分正解?」
「このラビリンスにはね、出方があるの」
「出方?」
「ミノタウロスを殺すのよ」
少女はにやりと笑った。よく見ると、その右手には銀色に光る日本刀が握られている。
少年は恐怖のあまり、足が震えた。
「そんなに震えないで子羊ちゃん。君はミノタウロスじゃないよ。ミノタウロスをおびき寄せる餌なのよ」
そういうと少女は優しく少年を抱きしめた。
抱きしめられたことには驚いたが、なぜだかその温もりは優しく、いつの間にか足の震えは止まっていた。
「見つけたぞ」
霧の中から悪魔の声がした。
まるでモーゼの十戒のようにその声のするほうへと霧が裂け目をなして晴れていく。
そこには、返り血で汚れた牛頭の男が立っていた。
「なんでこんなことをするんだ父さん!」
少年はミノタウロスの化した悪魔へと叫ぶ。
「そりゃ、お前が母さんを殺したからだろう?俺はひどく傷ついたさ。あんなに愛していた母さんが肉になって転がっているんだ。お前を殺さなきゃ治まらないんだよ」
「あれは母さんじゃない!母さんの皮を被った悪魔じゃないか!母さんは俺の耳を引き千切ったり、爪を剥いだり、熱湯をかけたりしない!殺されて当然だ!」
「やはり母さんの指導は甘かったようだ。お前は出来損ないで言うことを聞けないゴミくずだ。今すぐ殺してやる」
そういうとミノタウロスは少年に向かって、斧を構えて突進した。
少年は手に持った包丁でなんとか応戦しようとするも、ミノタウロスとなった悪魔の力は恐ろしく強く、包丁を持った少年の右肘を一撃で切断した。
「ああああああああああああああああ!!!!!!!」
少年は痛みから絶叫し、奥歯を噛む。
右肘から下を失い、水道の蛇口を捻ったかのように、血が止めどなく流れ出る。
「そう簡単に死なないでくれよ。これからお前の指を一本ずつ切り落として、皮膚を剥いで、肉を削いで、ミンチにして鼠にくれてやるんだからよう」
ミノタウロスは涎を垂らしながらニタニタと笑った。
少年は右腕を押さえながら地面に膝をついた。
「なあ、少年。あのミノタウロスを私に譲ってくれないか?」
さきほどの光景を傍観していた少女が少年の前に出た。
少年は少女の顔を見たが、その表情は喜びで歪んでいた。
「ずっと待っていたのよ。ミノタウロスをこの手で殺せるなんて夢みたいじゃない。このラビリンスを彷徨っていた甲斐があったわ」
「き、君はなんなんだ……?」
「私?私は夢見る少女よ」
少女の軽やかな声は、小鳥の囀りのように美しく、そして異質であった。
「ねぇねぇ。君はあのミノタウロスに殺されそうだよね?私があのミノタウロスから君を守ったら私のお願い聞いてくれない?」
「お願い?」
「そうお願い」
少女は片膝をつき、少年の耳元に口を寄せた。
「君の薬指、食べさせて」
その声に思わず体の奥から熱いものが込み上がり、無意識に少年は射精した。
少年は放心状態のまま、立ち上がった少女の後姿を眺めた。
ミノタウロスは鼻息を荒くしながら、斧を構えて少女へと振り下ろす。
少女はその斧を避けるのではなく向かっていき、紙一重のところで翻り、持っていた日本刀をミノタウロスの脇めがけて振り上げ、そのまま肩まで綺麗に両断した。
「ウウモモモオオオオオオォォォォオオオオ!!!!」
ミノタウロスが絶叫し、少女は狂ったように笑う。
そしてその日本刀でミノタウロスの右目へと刃を突き刺し、搔き回すようにぐりぐりといじり引き抜くと、同じく左目にも刃を突き刺し、搔き回した。
ミノタウロスの絶叫は次第に小さくなり、そしてついに息絶えた。
どさりと倒れたミノタウロスの頭を少女は踏みつけ、そして思い切り靴で蹴りつける。
その威力は凄まじく、左の蟀谷(こめかみ)が窪み、そこから脳みそが流れ出た。
少年はミノタウロスが死ぬ様を放心状態で眺めていた。
「君、ミノタウロスを殺したよ。さあ、私の願いを叶えておくれ」
そういうと、少女は少年の左手をそっと持つと、口元へと寄せた。
そして少女はその白い歯で、少年に薬指にキスをし、そして思い切り根元から噛み千切った。
「ああああああああああああ!!!」
少年が再び激痛に襲われる。
少女は噛み千切った薬指を、ごくりと飲み込んだ。
「さて、次は君の番だ」
少女はそういうと少年の前に白くて絹のような左手を差し出した。
痛みに悶える中であっても、少女は微笑むようにして見つめてくる。
少年は恐る恐る少女の左の薬指にキスし、そして根元を甘噛みする。
「そう、えらいえらい。じゃあ噛み千切って飲むんだよ」
少女は右手で少年の頭を撫でる。
少年は訳が分からなかったが、このまま薬指を食べなければ、恐ろしいことが待ち受けていると予感していた。
震える唇で、少年は勢いよく少女の薬指を噛み千切る。
「あはははははははははは!!!」
少女は絶叫するように笑った。
少年は少女の薬指をそのまま飲み込み、胃袋に指が落ちた感覚に思わず嘔吐いた。
「君と私はこれで永遠の愛を誓ったのさ!さあこれからのラビリンスを出ようじゃないか!そしてこれからもミノタウロスを殺そうじゃないか!」
少女は少年の左手を握り、スキップしながらミノタウロスの死体を踏みつけた。
あぁ、そうか。これが愛なのか。
少年はその歪んだ愛を抱きしめ、少女の手を強く握った。

◆登場人物
・占いのばあさん
・返り血の少年
・ミノタウロスの悪魔
・金髪のメイド


湿度文学。さん
お誕生日おめでとうございます。
これからも良作期待しております。


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