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飲み会と第三者の振る舞い

 久しぶりに大学時代の友人に出会うと、なにかと驚く事が多い。誰々が彼女と別れただとか、誰々が復縁したとか、誰々が会社を辞めただとか。

 大学生という肩書を捨て大人になった今、他人の人生について思う事が多くなり、同時に横槍を入れたくなる事が増えた。

 「きっと、社会人になって仕事優先になったからすれ違いが多くなったんだろう。だから別れたんだ。」

 「復縁って言うけれど、どうせすぐ別れるだろ。」

 どうやら、僕達は社会人になり少しだけ性格が悪くなった様だ。

 勘違いしないでほしいのだが、友達は友達だ。別に誰が嫌いとか、誰を特別に贔屓しているとかそんな物はない。それに、他人の人生に干渉するほど、僕は自分の人生に余裕は無い。

 だから、何かと飲み会は居心地が悪く感じてしまう。他人の人生に干渉している暇があったら自分のことに時間を割きたいし、僕達は愚痴をこぼす為に酒を飲むわけじゃない。どうせなら、自分の人生においてプラスの価値が生まれる場でありたいのが、僕が飲み会に求める条件だ。

 でも、人生において何がプラスかと聞かれれば分からないのが人生だ。

 飲み会が楽しければそれだけでプラスだし、そもそも下手を打たない限りは何かとプラスである場なのが飲み会だ。上司のグラスが空いていたら飲み物を聞くのが部下の勤めだし、飲み会の費用を払ってくれるのなら手酌するのは暗黙の礼儀なのだろう。

 それ以前に飲み会なんてなくなっちまえと思っている。という事は、心の隅に置いておこう。

 子供の頃は自分の人生を全力に生きるだけで精一杯だったのが、大人になって自分の人生へ向けるべきエネルギーを少しだけ他人に向けてしまっている事に、少しだけ悲しくなる。

 さらにタチが悪いのが、そのエネルギーを向けた先にある感情は、自分の心の醜さをさらに露呈させるという事。

 別にどうだっていいし、どうだっていいはずだ。誰が付き合おうとか、誰が別れようが、誰が社会から離脱しようが。

 けれど、人間というのは相手の事を下げなきゃいけない性分らしく、行動を起こした相手を自分と同じぐらいの場所に持ってこなければ気が済まないようだ。

 SNSが普及した事により、人間の汚い部分が手に取るように分かる様になった昨今。ニュースでは、SNSでの誹謗中傷が問題視されている。

じゃあ、SNSを無くせばいいか。という問題でもないのがこの問題の根が深い部分だ。

 まずそもそも、

そのコメントって本当に誹謗中傷のつもりで送ってきたのだろうか。

 という部分を考えなきゃいけないのだ。

 酔っ払ったおっさんの様な愚痴のつもりで送ってきていないだろうか。どこからが誹謗中傷で、どこからが悪口で、どこからが健全なコメントなのだろうか。そもそも、誹謗中傷として受け取るかどうかなんて、受けた側次第ではないだろうか。

 何かと簡単に記録に残せる様になった今、僕達はその場の主人公に対しての発言も淘汰される様になった。どうやら、僕達の様な脇役も生き方を改める事を求められるようだ。

けれど、人間というのは動物の中で唯一悪口を言う生き物だ。そんな生物が、簡単に人の人生に悪態をつかなくなるなんてできる訳が無い。

 政治家ですら問題発言をするのに、ごく普通の人間が発言に気を付ける訳がないのはなんとなくわかるだろう。それに、人間というのはどこかにストレスを発散させないと心身に異常を来す生き物だ。

 やっぱり、誹謗中傷という物は無くならないし、ネットの世界でのモラルは無いに等しいのだろう。そもそも、飲み会でもモラルが無いに等しいのに、ネットの世界にだけモラルを求めるのがおかしい話だ。

 まぁ、飲み会もSNSも嫌いな僕はどっちからもドロップアウトをしているのだが・・・正直、オススメしない。今の時代を生きる上でSNSの力を借りずに生きるのは何かと不便だし、企業もSNSを使って広告をする。

 会社に属している以上は人付き合いは大事だし、数少ない友達をなくしたくは無い。

 でも。だからこそ言わせてほしい。人間はそもそも弱い生き物だ。だからと言って自分までが弱くなる必要なんてない。他人の人生には干渉しない事をお勧めする。もし、自分の癇に障る言動を見てしまったとしたら、心の中で一言。「地獄に落ちろ。」とだけ願えば良いのだ。

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