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自分自身の分析と他人からの評価

 最近、とある小説を完成させた。3月31日が締め切りの新人賞に応募するつもりだ。

 その小説を新人賞に応募する際に応募要項に目を通したところ、「作品とは他に3枚程度の梗概を付けてお送りください。」と書いてあった。

 「梗概」(こうがい)というのは、いわば作品の地図であり、どういう感じに物語が進むのかというのを教えて欲しいという事だ。

 そんなもん、見て分かれよ。

 って僕は思った。

 売られている小説は何千冊とあるし、それを作っている出版社なんだから小説の行く末なんて読んで分かれよ。そのプロ集団だろうが。

 なんて思ったが、こうやってゴネても僕の作品はスタートラインにすら立てないし、僕が言っているのは「テストで名前書いてないけど、点数をちゃんと付けてください。」「信号無視したけど、違反を取り消してください。」と言っているのと同じなので、僕は梗概の書き方をネットで検索した。以下、僕が見た梗概の書き方サイトの要点のまとめ。

 •簡潔で明解な文であること

 •描写文は必要ない

 •正確に要約する

 •最後まで書くこと

 •関係ない事は書いてはいけない

 僕はどうやら、概要と梗概を間違えていたみたいだ。

 後で調べて分かったのだが、抽象的にイメージすると「概要」は宝箱の場所を表した絵地図みたいなもので、「梗概」は宝箱の場所を表した書巻物みたいなものだ。要するに、言葉だけで正確に旅人を導けという事だ。

 僕はちょっとだけホッとした。というのも、僕自身「これが俺の文学だ!」とか「これが物語だ!」という、初志貫徹した物は持っていなく、ただ「こういう仕組みの物語でこういうオチにすれば面白いと思うなぁ。」って思う物を純粋に掛け算して作った物なので、メッセージ性とか足跡とかそういった物は後付けでしかなかったからだ。

 卵が先か、鶏が先か。みたいな理論になるかもしれないが、そもそもメッセージ性なんて読者が自由に変えられる物だし、好きなように捉えられる以上それは軸にならない。僕が哲学書やビジネス書が好きなのは、どんな物を作るにしても核になる物だろうし、それはどんなに掘り下げても底が見えないからだ。

じゃあ、創作物において核になる物。とは、なんだろうか。

 きっと、作る人自身の「こういう物を作りたい。こういうのを表せたら面白い。」みたいな感情なのだろう。

 でも、そういうのって自分で言わない方がいいと思う。

 というか、「分かんない?」

 という感情になると思う。僕だったらなる。

 大学生だった時に、哲学の教授に「哲学が理解されなくて、悲しんだことがあるか。」と質問した所、「自分はちゃんと理解して哲学をちゃんと教えているんだから、もし相手が理解できないのならそれは相手の理解力かやる気の問題なのだから悲しむ意味が分からない。」と言われた事がある。「へぇ。自分の説明の仕方が悪いとか考えないんだ。」と当時は思ったが、今なら分かる。

 何事も、そもそも説明したくないし説明できない部分があるのだ。

 よく、自分の長所を語る時に「自分の武器は〜」という表現を用いる。けれど、本当に武器なら常に手に持っているのはおかしい。路上でナイフを持っている人間が、ナイフを持つ理由を正当化していたら誰もが距離を取りたがるし、誰もがその人の話を聞こうとしないだろう。そもそも、法律違反だし。

 じゃあ、自分が持つ武器をどう持ち歩くのが正解か。たぶん、凄腕の殺し屋らしく厚手のジャケットの下とかだろう。とにかく、一般人には見えないような場所に隠す。けれど、その中には無数の武器がある。だが、無駄に武器を使ったりしない。スマートな殺し方は、その場に応じた武器で、尚且つ最小限の武器しか使わない。そんな、殺し屋はずっと無敵だし生き続けるだろう。

 例えとして殺し屋を用いたが、表現者もそうあるべきだと思う。その人の脳内には無数の武器があって、その人の作品を見た人を次々と殺していく。きっと、中には殺された事に気が付かない人だっている。けれど、殺された事に気付いたり瀕死になった人間がその人の凄さを後世に伝える。それでいいのだ。そうやって、芸術とは語られなければいけないのだ。

 というわけで、梗概と呼ばれる物もちゃんと作った。要項を見たら3枚程度と書かれていたけど、書いたら3枚と4分の1になった。まあ、3枚程度だから大丈夫だろう。程度だし。

 今度、「程度」と記されていた場合、許される範囲の定義でも調べておこうかな。一生使う事ないだろうけど。




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