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名言と生きた言葉の使い方

 仕事柄、良い言葉だと思った物はメモするか写真を撮る様にしている。面白い展開だと思った物は何回も見る様にしている。とにかく、何かしらの形で記憶に残すようにしている。

 良い言葉というのは、基本的には2種類あり「誰もが言っても通用する、人間の摂理」から着想を得た言葉と「その人にしか通用しない、その人だけの人生観」から着想を得た言葉がある。

 どちらも、かっこいいのが最低条件であるのだが、かっこよさの違いを履き違えると痛い目になってしまう。厨二病と揶揄されたり、イタいやつと馬鹿にされるのだ。

 最近思ったのだが、物語を書くという行為はパズルピースを嵌めていく行為とどことなく似ている。気がする。

 気がする?

 と思った方。試しにやってみてほしい。それが脳内で想像してみてほしい。

 例えばだが、ここに戦士Aと戦士Bがいたとする。もちろん物語上で。

 戦士Aはイケメンで明るく、社交性が高い。

 戦士Bはイケメンではあるが、根暗で卑屈。

 そんな2人が、1人の王女に一目惚れしたとして。果たして、同じようなアプローチをするだろうか。全く同じ言葉を投げかけるだろうか。告白の仕方は一緒だろうか。

 きっと、誰もが違うと言うと思う。

 でも、キャラクターの設定を決めた段階で、なんとなく告白の仕方は決まってこないだろうか。

 主人公が明るいのなら、誰かが告白を聞いていても気にしないし、きっと情熱的な文を言うのだろう。

 逆に主人公が暗いのなら、女性に告白する場所はきっと二人っきりになれる場所だろう。情熱的な文は言えなくても誠実な告白はしそうだ。

 人間というのは、どうやら性格が決まった段階でなんとなくの言動パターンや決まってしまう生き物らしい。

 甘党の人が辛い食べ物を手には取らないだろうし、深夜にバイクを乗り回している人がお年寄りを介抱するなんて想像できないように、どうやら人間というのは無意識の内に行動範囲を狭める生き物だ。

 というわけで、僕からしてみればある程度人間というのは型が決まっている生き物である。

 じゃあ、人間はそのまま形が一生変わらない生き物なのかと言われればそうではないと思う。

 僕の周りにも、元々動物が好きじゃなかったのに猫カフェの従業員になっている人がいるし、元々外出するのが好きだった人が結婚した途端に家にいる事が好きになった人もいる。

 じゃあ、何がそうさせたのか。と考えると、その人なりの人生を変える出来事があるという事実にぶち当たる。人生はグラデーションの様に生きていれば何かに染まっていく物ではなく、人生を変えるきっかけに当たった事により何かに染まっていく物だ。

 もし、人間をパズルのピースに例えるのなら、他の人間とハマる為の繋ぎ目が生まれなければならない。小説家というのは、どうやってこの繋ぎ目を上手に作るかという事を求められるのだ。

 そんな時に何かと役に立つのが、「名言」と呼ばれる物だ。

 「20代は、触れる言葉の多さで豊かさが決まる。」だなんて、先人達は言う。でも、その名言は一体誰の名言なのだろう。何をもって名言だと言えるのだろう。そして、その言葉の本質を理解しているのはどれぐらいいるのだろう。

 僕が15歳の時、右も左も分からずに小説を書き始めて何かと困った時があった。

 キャラクターに人間性の付加価値をつけられない。いわゆる、名シーンというのが生み出せない。唯一無二の作品が生み出せない。どれもこれも、僕自身が未熟であるが故の悩みであり、当時ではどうにも解決できない壁であった。

 僕はどうにかして作品を完成させようとした。その為だったら、どこかで聞いたことある様な言葉をあたかも自分の発明であるかの様に振る舞った。

 でも、それはすぐに無謀であるのと知った。

 後々になって冷静に読んでみると、どうも陳腐で、どうも違和感が拭えないのである。

 感覚的な話になってしまって申し訳ないのだが、元々は可愛いぬいぐるみでもパッチワークが行き過ぎると歪になったり逆に可愛くなくなったりする。

 何かと自然のままの方が美しいのは百も承知だと思うが、どうやらそれは言葉も同じ様だ。

 じゃあ、物語における名言はどうやって生まれるのだろう。

 どうやら、僕達はもっと知らなきゃいけない様だ。キャラクターの性格を。キャラクターの生い立ちを。キャラクターの声を。

 きっと、作品を書いただけじゃ産まれない。人物を生み出しただけじゃ産まれない。知っただけじゃ産まれない。

 名言が産まれる条件とは、どうやらもっと奥底にあるようだ。僕達は、そこを目指して作品を深掘りしなければいけない。

 きっと、何年かけても足りないのだろう。

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