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殺人欲求と芸術性

 今更だけど、「キャラクター」という映画を見た。(なんか、デジャヴだな。)

 いつも通り、Amazonプライムで見た。面白かったんだけれど、何かを表現している者の端かけとしては耳が痛いセリフのオンパレードで、なかなか素直に楽しめなかった。

 刺さる理由は色々とあったけれど、1番刺さったのはサイコパス殺人者である両角という男が言った自分の殺人を正当化する為のセリフ

 「先生だって、作品の中で人を殺してるじゃん!!一体、何が違うの!?

 刺さったねぇぇ。この上無いまでに。

 ここ最近の悩みをドストレートに当ててきやがったよ。猟奇殺人者の両角が。思わず天を仰いで、「ぐはぁ!」って言ってしまったほどだ。

 いや、そうなんだよ。一応、作品の中だから正当化されているけど、僕から表現者という肩書きを外してしまったら殺人者と何ら変わらないんだよ。

 少なくとも、僕は本気でそう思っている。だって、俺が小説家になろうと思ったきっかけは、夢物語とは言えないぐらいに薄汚れた物なのだから。

 まあ、でも。それは後々話すとして。まずは最近感じた悩みと葛藤を聞いて欲しい。

 ここ最近、壁に当たった。

 人間というのは、余程の事がない限りは喜怒哀楽が存在する。好きな物を食べれば喜びが。彼氏がデートの約束をすっぽ抜かせば怒りが。新しい日記帳を買えば楽しみが。そして。テストで0点を取れば哀しみが。

 感じ方や感じるきっかけは人それぞれだが、ほとんどの人間に一律でそんな感情が備わっている。

 今回語りたいのは、最後の哀しみの話。

 小説の面白い所は何個かあるけれど、一つ挙げるとしたら「自分には存在しない世界に、どこかリアリティと共感性を感じる部分がある事」だと思う。

 じゃあ、そのリアリティと共感性はどこから生まれるのか。

 きっと、登場人物の思考や感情に、自分にも通ずる部分があるなぁって感じた瞬間に生まれるんだろう。

 じゃあ、人間はどんな時に感情を感じるのか。

 さっき記述した通り、起きた現象に対して後天的に何かを感じるのだ。

 好きな食べ物にしろ、デートの蔑ろにしろ、新しい1ページにしろ、テストの0点にしろ。現れた事実に対して、人間は感情を抱く。

 でも、その感じ方の度合いは人によって違う。

 好きな食べ物を食べる喜びよりも、倦怠期を迎えていた彼氏と久しぶりに手を繋いだ時の方が喜ぶ人だっている。デートの約束を忘れられた事より、妹が自分用に取っておいたプリンを食べてしまった時の方が怒りを感じる人がいる。

 人間というのは、まず自分の感性から行動が始まる。人の数だけ感じ方がある以上、感情の度合いに順位なんてつけられない。

 そんなこと分かっていた。分かっていたつもりだった。

 けれど、僕はそれに順位をつけようとした。

 そして、自分が書いた作品達を見直してこんな事を思った。

 僕って、人が死なないと哀しみって感じないのかなぁ。

 人はいずれ死ぬ。僕もそうだ。僕は人間の死がほとんどの人間において哀しみの最上位だと思ってしまったのだ。

 哀しみの最上位なのはきっと正しいんだと思う。でも、表現者である以上そればっかりに頼ってはいけない。違う哀しみを見つけて、それを書かなきゃいけない。なのに、どうしてかそれに拘ってしまう自分を初めて嫌だと思った。

 でも、他に何があるんだろう。みんな同じぐらいに感じる哀しみって。

 探さなきゃいけないのか。僕はこの世界に夢を見たんだから。

 あ。そうそう。映画内で、漫画家の山城圭吾がこんなセリフを言っていた。

 「俺。才能が無いんです。でも、それを認めるのが怖くて。

 大丈夫。才能はあるよ。だって。最後の最後で、地獄を見たんだから。

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