生成 AI 時代の創造性についての考察―最後に残るものはなにか
2023年度に入ってからずっと、「生成AI時代の教育と創造性」というテーマを深めてきた。そのひとつの結果が、先日登壇したGENEEのシンポジウムで発表した内容である。
10年にわたり、創造的なプログラミング教育を中心に実践・研究活動をしてきた身としては、生成AIの登場は完全に追い風だと思っている。作ることにフォーカスする時代がやっときた!という感覚。今日は、よく講演では話しているけど note には書いていなかった、生成AI時代の創造性について自説をまとめようと思う。
これまでの創造性とこれからの創造性
まずは生成AI時代の創造性について簡単にまとめよう。
これまで、「なにかこういうものを作りたい」というアイデアを思いつくことができる人はそこそこいたが、形にするのはとても難しい。なぜなら、形にするための技術を身につける必要があるからである。技術を身につけるのは簡単なことではなく、スキルトレーニングには膨大な時間と労力がかかった。さらに、スキルトレーニングをやり切って形にするのもかなり大変で、ここに2つの壁があった。なにもない状態からトレーニングをするという第一の壁、トレーニングを完遂し形にするという第二の壁である。
だから、いわゆるクリエイターと呼ばれる人たちは希少価値が高く、それだけで重宝されていた。
一方で、生成 AI が誕生したことによってこの壁はかなり低くなった。アイデアを思いついたら、生成AIに指示を出し、作ってもらえるようになったからである。第一の壁が完全に壊されたと言っていいだろう。そして、第二の壁も簡単に飛び越えられるくらい下がっている。
昨日からSNSを賑わせている音源生成 AI である suno.ai 。あまりの完成度の高さに驚いた。例えば、これは簡単に作った曲の1つ。適当な歌詞を作ってそれっぽい曲のジャンルや雰囲気を伝えただけで、このクオリティである。
僕はこれまで趣味でビートメイクをやっていたが、僕が3-4年かけて習得した技術はあっという間に生成 AI に取って代わられてしまった。
「作品の価値」の変化
こうなってくると、アウトプットである「作品」の他者評価を軸とした価値はとてつもなく下がっていく。誰もができないからすごいと言われていたわけで、誰もができるようになったらその中に埋もれていってしまう。
例えば、写真を例に考えてみよう。一昔前まで、写真に写るのはとてつもなく価値のあることだった。例えばほんの100年ちょっと前には一部のお金持ちや権力者しか写真に写ることはできなかったし、庶民が写真を撮るのは結婚式など人生の節目となるような出来事の日しかなかった。しかし、時代が進むと日常的に写真に写るようになってきて、現在ではデジタルカメラやスマートフォンの普及によって誰もが写真を撮る側にも撮られる側にもなっている。写真の価値はここ100年で大きく変わったのだ。
これと同じことが、あらゆる分野で起こっていくというのが生成 AI によってもたらされる創造性の転換だと考えられる。これまで一部の才能のある人しかできなかった絵を描く、音楽を作る、映像を作る、プログラムを書くといったクリエイティブな行為が、誰でも簡単にできるようになっていく。今どき写真を「撮る」こと自体を自慢する人は少ないだろう。同じことが、様々な領域で起こってくる。
もちろん、プロが撮る写真はまた別である。例えば、結婚式の写真を iPhone で撮るだけでOKという人はあまり多くないのではないだろうか。一生残る大切な写真はプロのカメラマンに頼みたいというのは普通のことだし、そこにプロの残る道がある。使いこなすにはトレーニングが必要なのだ。でも、そこにはアマチュアが撮るものとは明らかに違うなにかしらの付加価値がないといけない。もともとプロとはそういうものなのであろう。だから、音楽もプログラミングも映像制作もプロの仕事がゼロになるとはまったく思わない。しかし、より高いレベルで価値を発揮しなければ生き残れなくなってしまったのは事実だろう。
「つくることの歓び」
このような話をしていると、今後人がものを作ることはなくなってしまうように思えてくるが、今後失われていくのは他者評価ドリブンによる創造性の発揮だろう。逆に言えば、自己評価に基づく創造性の発揮はこれから先もずっと続いていくように思われる。最後に残るのは、どうしても作りたいという欲求。その過程で味わう「つくることの歓び = Joy of Creating」だろう。これは他者評価に還元されない自己の評価、つまりアート的な行為と言える。
歓びは、消費的な行為では得られない(happy や fun ではない)深い歓びを指す。一度でもものづくりをしたことがある人ならば分かると思うが、作りたいものが出来上がるまでには様々な困難や課題に直面し、それを「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤を繰り返しながら乗り越えていく。その先に待っている「ああ、やっとできた!」というのが「つくることの歓び」といえるだろう。その瞬間のなにものにも変えがたい感覚は、創造的な活動でしか味わえないものである。
大変なのになぜやるのか。それは表現したくてたまらないなにかがあるからであって、そこに情熱を持って取り組むのだ。(これはパパ―トのいう Hard fun! にも繋がっている概念だと思う。4P'sの Passion でもある。)
これから先、私たちに残された道はつくることの歓びを感じる創造的活動だけなのだと思う。生成 AI がやってくれることを生成 AI を使わずにやることをロジカルに説明することはとてもむずかしい。これは学びの文脈においても同じことが言える。ある種の権力をもって子どもに手段を強制することはできても、それは一時的な処置でしかなく思考停止である。
また、これは現在のアテンション・エコノミーへのアンチテーゼでもある。皆が他者評価を過度に気にしながら生きる社会の歪みは、様々な部分に影響を及ぼしている。創作物に対しての他者評価はとても厳しいものになってくる以上、その評価に振り回されず、自分がやりたいこと、歓びを感じることに集中する必要がある。その対象と出会うための旅が学びであると捉えたい。創造性と学びは深く繋がっているのだ。
消費と創造を巡る問題の所在
図3の左側は生成AI登場以前の創造性を軸とした階層モデルである。アイデアとスキルを持っている創造層、アイデアは持っているがスキルがなかった中間層、アイデアもスキルも持っていない消費層に区分することができる。
右側は生成AI以後を表現している。創造層は持ち前のアイデアとスキルに生成AIをかけあわせることによって、おもしろいものをたくさん作っている。また、中間層はアイデアを生成AIと一緒に形にしていくことで、創造層の仲間入りをすることができる。
一方で、消費層は消費層にとどまり続けることになる。ここには二重の問題がある。1つは、今後消費層が消費するコンテンツは生成AIが生成した質の低いコンテンツであるということ。2つ目は、そのコンテンツをレコメンドするのもAIであるということだ。AIによる二重の呪縛によって、消費層は消費層に固定化されてしまう。この未来は恐ろしい。
現在でも一部起こりつつあることであるが、今の若者の一部は素人が作った低品質のコンテンツを浴びるように消費することになんの問題も見出していない。例えば、今の若い人たちは無料で読めるマンガアプリに掲載されているマンガを大量に消費するだけで満足してしまい、業界的に高品質とされるマンガに触れる機会がどんどん減っている。なぜなら、そこにお金を払うほど好きではなかったり、そもそもお金を払う余裕がないからである。同じことは動画でも起こっていて、数億円かけて作られた映画を見るより、YouTube の動画を見るほうが無料で簡単にできるからそちらでいい、ということになってしまう。YouTube の動画がだめだと言っているわけではない(自分もたくさん見ている)。それにしか触れられないということ、質の高いものに触れる機会がどんどん減ってしまっていること、その理由が経済的な問題に起因することが問題なのだ。
だからこそ、学校教育という最後のセーフティーネットでは、質の高いコンテンツ(=文化的に継承されてきたコンテンツ)にたくさん触れていくことが大切といえる。特に美術や音楽といった芸術系科目の重要性はますますましてくる。(しかし、それはクラシックなものを見せればいいという話ではないということは明記しておきたい。)
質の高いものに触れるということは、価値観を形成することにもつながる。本物 (actual) にふれる経験を経なければ、「自分はなにをしたいのか・何が好きなのか・なにを「いい」と思うのか」といったことに答えることができない。だからこそ、消費層にとどまることは怖いのだ。
「自分が作った感覚」はどこから生まれるか
最後に、生成 AI と創造性を考える上で今後課題となるであろう論点を指摘してこの論考を締めくくりたい。
ここ最近の興味関心は「生成AIを通して作った作品は自分が作った感が生まれるかどうか」ということである。例えば、先程紹介した suno.ai で作った曲の中で自分が関与したのは「やばいやばいやばい 超楽しい」という歌詞を書いてコピペしたこと、曲のテンポやジャンルを指定したことの2つだけである。ビート、ラップ、フローはもちろんのこと、背景にそれっぽい画像を付け加えた映像まで suno.ai が作ってくれている。
確かにこの曲は僕が指示したことによって生まれている。でも、僕が作った感覚は1mmもない。強いて言うのであれば、誰も知らない曲を発掘してきたような感覚がわずかにあるくらい。これを自分の曲ですと言って発表することはできないように思う。
生成 AI と一緒に作品を作ったとき、人はどれほど「自分が作った感覚」を覚えるのだろうか。自分の作品として胸を張って言うことができるのだろう。これは結構重要な問題だと思う。例えば、現在教育現場でいくつか行われている実践のひとつに、生成 AI と文章を一緒に作るというものがある。これは ChatGPT を始めとした文章生成 AI の一番かんたんな利用だから、今後広く取り組まれることになるだろう。
やり方は様々あるものの、よくあるのはまず自分で文章を書いてそれを添削させてより良いものに変えていくというものだ。大元の文章は自分で書いているので、そこにちょっと手を入れられるくらいであれば、自分のものとして認識すると思う。
でも、初稿を AI が作り、そこに人間のエッセンスを入れて、さらに修正して、というプロセスを経るような流れで行ったときには、自分の文章という感覚が曖昧になってくるのではないだろうか。
例えば、向き合った時間や介入した回数などによって変わってくるかもしれないし、自分のなかでの重要度によっても変化すると思われる。このあたり、しっかりと検証する必要がある。つくることの歓びを感じるためには、ああでもないこうでもないという試行錯誤が必要だが、後者のプロセスにおいてそれは感じられるのだろうか。つまり、生成AIを使うことを前提とした創造的な活動と作業的な活動は分けて考えなければならないということだ。
まとめ
というわけで、恒例(?)の ChatGPT による本論考のまとめを最後に貼って終わりたい。
生成 AI が教育や創造性にどのような影響を与えるかについては、まだまだ議論が深まっていないのが現状である。だからこそ、自分の領域でそれぞれがどうこの問題を引き受け、考えていくかが重要なのだろう。
2023年は本当におもしろい1年だった。引き続きこの課題については考え続けていきたいと思う。
宮島衣瑛です!これからの活度のご支援をいただけると嬉しいです!