スター心理士を推す動きから考えたこと
「推し」というワードが流行って久しい。
「推し」は「おし」と読む。
推しとは「大好きである」「大ファンである」といった意味。
「昨日推しのライブに行ってさ~」「え~よかったね」といった使われ方をする。
googleで調べてみると、
とのこと。
推しは今やインターネット上だけではなく日常会話にもたびたび登場する。
推しを使った表現で「推し活」というのもある。
とgoogle先生は言う。
さて、ここからが私のつぶやきであるが、「推し活」は心理士業界でも活発に行われていると思う。
例えば研修。
著名な先生が講義すれば、すぐに満席になる。各分野に、そういうアイドル心理士、スター心理士がいる。
スターは特定の心理士に固定されがちで、何年たってもなかなか代わらない。講師のポジションに就くと、名声と講師料が安定的に入ってくる構造になっている。
参加者は推しに課金することで、専門性が身についたように錯覚できる。推しの研修直後は、スターの技術を身に着けた気持ちになりウキウキする。だから休日返上でせっせと課金する。安心を金で買う。
学会にもある。
2023年には、心理臨床学会で、著名な心理士のサイン会が開かれたという。
このとき、この構造って推し活だなと私の中で明確になった。以前は河合隼雄とかがスターだったのだろう。待ちに待ったNEWスター誕生!!と学会が湧いている。
一般心理士が、スター心理士のありがたいお話を聞き、書籍を読み、安心を得る。スターと言葉を交わし、サインを手に入れ、喜び、明日への希望とする。
業界の未来を推しに託す。「我らの〇〇先生、我々の未来をよろしくお願いします」
一人一人が独立した心理士として動くべき部分を、スターに委ねてしまう。知らず知らずにこういう構造に飲み込まれる。一人一人は実力のある心理士であったとしても。
スター心理士の実績が素晴らしいのは言うまでもないことである。彼らの著書で必要のあるものは、これまで私も自費で購入し拝読してきた。どれもとても勉強になった。
ただ、それだけでは、一向に実力はつかないのも確かだ。現場に出て10年くらいかけて学んだ。(学びが遅い!判断が遅い!とうんざりする)
だから推し活をしたいとは思わない。
スターは学びの入口としての存在に過ぎない。
推し活では、推しとファンの関係性は、理想化されたものであり、現実的な関係性はほとんど生じない。
推し活では「推しとランチする」とか「推しとお茶する」とかいったことは通常起きない。「推しと家族になり、推しの脱いだ服を洗う、推しの使った食器を洗う」「推しの見たくもない面を見る」といったことはあってはならない。
あくまで『私の理想の推しが、私の理想通りの歌やダンスや表現で私が満足できて、辛い日常をひと時忘れさせてくれる』そんな癒しや心の支えだったりする。
推しが突然、そこらへんのおじさん、おばさん、おねえさん、おにいさんになっては困るのだ。推し活が成立しなくなる。
推し活は自己愛的で、予定調和的な活動である。
推し活には、現実逃避の一面がある。それ自体は否定しない。むしろ生きるためにめちゃくちゃ必要だと思う。現実逃避はとても大切なサバイバル術の一つだ。
我々は、辛い仕事も、退屈な日常も、週末の推し活があるから、なんとか頑張れるというものだ。
一生活者として、推し活は大いに活用して良いと思う。というか活用しなければ生きていけまい。
ただ、推し活は、カウンセリング「には」なじまない。
カウンセリングでは、クライエントは悩みを打ち明け、カウンセラーと共有する。カウンセラー、あるいはカウンセリング場面は始めこそ理想化されていたとしても、途中から、カウンセラーとクライエントは共に悩みと向き合う同志になる。日常の関係性になる。
カウンセリングが日常になる。するとそのプロセスの中で、カウンセラーが冷酷な父に見えたり、自分を支配する母親に感じたりすることもある。だからこそ向き合える感情もある。
理想化されたままの推しカウンセリングで、自分のどろどろした部分を話せるだろうか。無理だろう。
心のワークを進めるためには、理想化を断念することが必要になる。
予定調和通りに全く進まないのがカウンセリングの現実だ。キレイ事では進まない。そして、それは人生そのものだ。
カウンセラー自身も自分の見たくもない、”くそ”のような側面とも向き合わなければならない。
そういった仕事を真正面から行う心理職が、自分たちの集団の中で推し活をするのは、いかがなものか、イタイ(痛い)と私は思う。
心理士集団が、自己愛的な関係性の中に閉じてしまい、現実逃避しているように見える。これは内部にいたら絶対に見えない。自己愛的なあり方は、外から指摘を受けないと絶対に分からないからだ。
推し活の最大の弱点は、他者不在になることだ。趣味の推し活ならそれで構わない。思い切り楽しめばいい。しかし、心理士の推し活は、そこにクライエントの存在がある。すっぽり抜けてしまうとクライエントが困る。
推し活に湧いている心理士は、”くそ”のような苦しみを持った人たちにどう映っているのだろうか。という視点だ。
自民党の派閥解消議論が今ニュースになっているが、議員達がしているのも推し活に見える。「安倍さんに申し訳ない」と言っても「国民に申し訳ない」ではないのだ。
「麻生太郎が岸田総理に激怒しているらしいよw」と小学生たちが雑談していた。政治家本人達は大真面目でも、端から見ると、「w」が付くのである。(子どもの感性は素直だ)
国民の代表がこういう現状だから、日本人の集団心理の傾向なのだと思う。
2023年の心理臨床学会でのサイン会が、私にとっては一つの分岐点のように感じた。一般の書店でのサイン会なら何も違和感がないが、学会の場で行われるとは。
この一線を越えてしまったか・・・というのが実感。というかもともと越えていたのがインターネットの普及で可視化されただけだろう。
「学校が求めるスクールカウンセラー」という本はあっても「生徒・保護者が求めるスクールカウンセラー」という本はない時代。そのことへの違和感が聞こえてこない時代。
クライエントの役に立つ臨床を追求しよう。クライエントを見続けよう。
というシンプルな姿勢が、「思想が強いね」「それってあなたの感想ですよね、エビデンスは??」「おつー」「w」と揶揄されることもあるだろう時代。
推し活してなきゃやってらんない。その心情はよくわかる。推し活への誘惑は強烈だ。
しかし。推し活するなら別でやる。
仕事は仕事。推しは推し。と私は分けたいと思う。
こう言い続けないと、推し活に飲まれていく波が、ここにはずっとある。
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