わかってくれると思ったのに…という気持ちから
わかってくれると思ったのに…
わかってくれてると思ってたのに。
(裏切られた)
わかってくれてたんじゃないの?
(そう思い込んで傷つけてしまった)
わかって欲しかったのに。
(わかってくれない)
このようなことは日常でよくあります。人と人がわかり合うことは本当に難しいことだと思います。
わかり合えないとわかること
でもそこから、
「ここは、わかり合えないね、私たち。」ということは分かります。
この連続で、人はわかり合い、つながりあえるのかもしれません。
そう考えると「わかってくれると思ったのに」と感じるのは、とても大事なことですし、その気持ちは不快であってもすぐに捨てずに、大切にした方が良いように思えてきます。
そこから、相手とつながるための動きが生まれてくるからです。
わかり合えなかったな。どうしてなんだろう。相手はどう思ったんだろう。自分はどう思ったんだろう。どうしたら伝わるんだろう・・・・。
このように「考える」ことが出来ます。
では自分はどうしよう。どうあの人と対峙しよう。
実際の行動を決めていくことが出来ます。
「え?分かってくれると思ったのに。」は、様々なことを考える心のスペースを作るための、一区切りになる大事な合図です。
わかったつもりになる心
しかし心は不思議なもので、わからないままというのはどうも落ち着かないように出来ているようです。
わからない状態は、散らかったお部屋にいるような気分になぞらえることもできるでしょう。
だから、考えることを止めてしまって、わかったことにしたくなる誘惑が常にあります。ほっておけば、心はわかったつもりになってしまいます。
だってカウンセラーは〇〇だから、精神分析の人は〇〇だし、あの人は〇〇だもの、この人は〇〇でしょう、日本人は、中国人は、アメリカ人は…
私たちは、日ごろ様々なことをこうして分かった気になって、とりあえず心に収めてしまいます。
(衣類、本、食器、おもちゃ・・・とラベリングしてさっさと段ボールに詰めてしまうような感じでしょうか。とりあえずお部屋はすっきり片付いたように見えます。)
でも安易に分かった気になることにより、そこからすれ違いが生まれ、つらさが出てくるように思います。
(あれ、必要なものなのに、箱にしまっちゃった。どこにしまったっけ。どうしてしまっちゃったの?そこにしまうんじゃないでしょう。うるさいなあ。出しとくと目障りなんだよ。・・・焦りや困惑、喧嘩につながります。)
そんなときできるのは「でも、人の心はわからないぞ」に意識を引き戻すことではないでしょうか。
そしてわからないのは、相手だけでなく、自分の心ももちろん含まれます。
わからなさに留まること
わからなさに留まれると、人とつながりを作っていける可能性が広がります。
わからないから想像してみる、聞いてみる、確認してみることができるからです。
わかった気になる世界は、楽かもしれませんが、自分一人の世界です。
人と関わる喜びも悲しみもない、ファンタジーの世界です。
ファンタジーの世界で生きるのを選ぶのか、リアルな世界で関わることを選ぶのか。
もしリアルな関わりへ踏み出すのであれば、わからなさに留まるのに、セラピーというのは、まあそれなりに役立つ方法の一つだと思います。
セラピーは、わからなさに開かれていようとし続ける営みです。
「これはわかったけど、これはわからない」と、あれこれ話をしていく場です。
(箱にしまわずに、ながめてみよう。これはおもちゃ?食器?なんだろう。
これをどうやって使おう?これはどこにしまおうか?・・・なかなか片付かない部屋ですが、話し合いは活発になります。)
「この話し合いに意味があるのか」と時には投げ出したくもなりますが、わかったこと、わからないことが具体的に明確になると、霧が晴れるように、心は落ち着きます。
落ちついて地に足がつくと、今できることをやる力も湧いてくるのだと思います。
セラピーでは、わからなさに留まりながら生き続けることを目指していきます。
人とつながりながら生きるために。
(よし、これはもう使わないから捨てに行こう。帰りに美味しいものでも食べて帰ろうか。・・・こんなささやかな幸せが訪れることを願って。)
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