菫色の実験室vol.5|花モト・トモコ|Viola Kitty
ひとけのない実験室の長廊下から、動物の鳴き声が聞こえるのは非常に珍しいことです。過日出会った妖精猫たちは、姿は見せても、鳴くことは決してありませんでした。
近づいては遠のく鳴き声を早足で追いかけます。スミレの香りも心なしか駆け足で過ぎてゆくようです。空気の質感もソリッドになり、感覚がだんだんと研ぎ澄まされてゆくのを感じた時、パタリと鳴き声は止み、反対に香りの方は、存在を主張するように濃く深くなりました——
*
*
*
そっと扉を開けました。
そこには、真っ白な空間が広がっています。
ちょうど菫色の刻限が近づき、窓から差し込む菫色が新しいパレットに色を落とすように、微妙に色合いを変えながら、菫色を描いてゆきます。この部屋にある全てが、隅々まで、新しいパレットのように清潔でした。どんな菫色もやさしく受け入れてくれるような、色を落とすたびに生まれ変わるような新鮮な空気感に、すっかり心を奪われてしまいました。
モダンに設えられた調度も清々しく明朗です。白で統一されたアイテムの中に、いっそう白を際立たせる面持ちで、菫色の実験日誌が置かれていました。
白い標本棚に集められた、スミレ属の断片——白に点在する菫色と、スミレ花にまつわるエフェメラを眺めていると、忘れていた様々なシーンが思い出されます。
開け放った窓から入ってきた蝶が、鏡台にある菫色の香水壜にとまった或る初夏の朝。そよぐ風が肌を渡り、開いたままの書物のページをすぎて、蝶の羽根を震わす。少し遠くで新緑がむせかえる香りを放ち、やがて手元の紅茶の香りと交差して、新しい季節の到来を知らせる——
実験室に置かれたサンプル標本から呼び覚まされた記憶は、鮮烈な内容ではなく、記憶の奥底に眠っていたささやかな日常の風景でした。しかし、その回想のひとときは、時間が清流となって身体を駆け抜け、いつでもその清流——白の場所——に出会えることを鮮やかに伝えてくれました。
ここでも白を発見しました。道端に咲く白スミレの造形が、ドレスの裳裾の美しい陰影に呼応しています。白に身を包み、菫色の影を落としてゆくエレガントな女性の向かう先が気になります。
鳴き声の主にようやく出会えました。
菫色をいっそう深くする白の空間の神秘、菫色の実験により白を極めようとする研究員の洗練とモダニティ——見えないものを感じ、忘れていたものを思い出し、イマジネーションの源を新鮮に保管する場所として、白は存在するのかもしれません。
菫色を求めた先で、誠実な「白」と出会った私は、白衣の衿を正し背筋をピンと伸ばして、実験室を退出しました。
花モト・トモコ | イラストレーター →HP
千葉大学卒業。高島屋や三越伊勢丹の広告、FIGARO JAPONなどのファッション誌、アパレルブランドとのコラボレーション、店舗ディスプレイ、パッケージなど、ファッションやライフスタイルをテーマにした作品を幅広い分野に提供している。自ら彩色やドローイングを施した紙を用いて制作する切絵作品が特徴。オリジナルのテクスチャや細かなディテールによる作品は、独自のセンスと世界観が魅力。
2020年12月、外苑前Popularity Gallery & Studioにて個展開催予定。
*
作品名| Laboratory Ⅰ
水彩絵具・鉛筆・ジェッソ・水彩紙・ボール紙
作品サイズ|33.6cm×26cm
額込みサイズ|44cm×37cm
制作年|2020年(新作)
花モト様を象徴するコラージュの手法、「自ら彩色やドローイングを施した紙を用いて制作する切絵」による一作。得意とするモードで洗練された世界観がひとつひとつのモティーフに表現されています。画材や紙を駆使して制作される作品は、モダンでありながら、手触りや体温のある複雑な奥行きをたたえています。
これらのモティーフから、どんな物語を想像しますか?
*
作品名| Laboratory II
水彩絵具・鉛筆・ジェッソ・水彩紙・ボール紙
作品サイズ|33.6cm×26cm
額込みサイズ|44cm×37cm
制作年|2020年(新作)
同じく、「自ら彩色やドローイングを施した紙を用いて制作する切絵」による一作。古びた質感を表現しながらも常に新しさを感じるのは、花モトさま特有の余白のセンスゆえ。際立つ白の美しさは、描かれたモティーフと同じ比重で私たちを魅了します。
白のリズムを楽しみながら、花モト様からの謎かけを解いてみませんか?
*
作品名| Lady in Love
水彩絵具・鉛筆・色鉛筆・水彩紙
作品サイズ|28.8cm×20cm
額込みサイズ|39.5cm×30.4cm
制作年|2020年(新作)
白スミレの造形に呼応する裳裾の陰影と細いヒールのみで魅力的な女性像を物語る、花モト様の比類なきセンスが際立つ一作。モノトーンの中に配された菫色の影も暗示的、洗練の美意識とエレガンスが軽やかに結実したイラストレーションです。
*
作品名|Viola Kitty
水彩絵具・鉛筆・色鉛筆・水彩紙
作品サイズ|28.8cm×20cm
額込みサイズ|39.5cm×30.4cm
制作年|2020年(新作)
菫色の瞳持つ黒猫の神秘を、臈長けた女性の足元を通して描いた一作。抜群の構成力でシーンを描き、具象でありながら抽象性の高い感覚を表現する花モト様の技が冴えるイラストレーションです。鉛筆の柔らかな筆致に、花モト様の対象への優しい眼差しが重なります。
*