彼酔イ坂〜街角美身~遥か道の幸へ 005/小説+詞(コトバ)
「ごめんね。待った?」
「いや、この時間に間に合うように、会社を出て来たから」
「そういえば、キソクは何をやってるの? 昨日、スーパーで遇ったのは四時前だったし、今日だって、まだ一時よ」
「これでも社長だぜ。小さな弁当屋だけど」
「へぇ、すごいね!」
「オヤジの後を継いだだけだよ」
「チェーン展開してるの?」
「徐々にだけどね」
「何店舗くらいあるの?」
「いきなり質問攻めかよ。まぁ、どこか店にでも入ろうよ。昼は、もう食べたの?」
「まだよ。何か作ろうと思ってたところに、キソクから電話が掛かって来たから」
「そうか、よかった。俺もまだなんだよ。何を食べたい?」
「キソクが決めてよ。私は、なかなか決められないから」
「じゃあ、和食でいいかな? 刺身のうまいところが近くにあるから」
「あ、それいいね。そこにしようよ」
「よし、決まり」
伴田の経営している弁当屋は、父親が部長まで上りつめた会社を早期退職し、それで得た退職金を元手に始め、現在は十五店舗ほどある。
その父親は、まだ健在なのだが、伴田の二十歳の誕生日にあっさりと引退し、その後を伴田に譲り、それ以来、夫婦で旅行三昧の日々を送っています。
「ここだよ」
伴田が案内したのは、居酒屋でした。
昼はランチをやっていて、この辺りでは旨いと評判の店です。
「ホントにおいしいね、ここの料理!」
「だろう。大学を中退して、弁当屋をやって行こうと決めてから、安くて旨いと評判の店を食べ歩いたからな。おかげで、こんなに太っちゃったよ」
「ただの中年太りじゃないの?」
「まだ二十二だぜ!? 中年じゃねーよ! ていうか、同い年じゃん」
「あ、そうだったねぇ。頭も薄くなりかけてるから、勘違いしちゃった」
「これは遺伝だ。オヤジも禿げてるし…」
「え、お父さんはツルツルなの?」
「そこまでは行ってないよ。スダレくらいかな」
「ふ~ん。じゃあ、キソクもそうなるんだねぇ」
「HiToの頭をしげしげと見るなよ。なんか、抜けて来そうだよ」
「いっそ、潔くスキンヘッドにしちゃば!」
「この顔でスキンにしたら、相当恐いだろう。お客さんが逃げちゃうよ」
「社長なのに、店に出るの?」
「たまにね」
「逆に、名物社長になったりして!?」
「相変わらず、遥風は面白いなぁ」
「だから、キソクとはそんなに話したことないじゃない」
「ずっと見てたんだ。俺、高校のとき、遥風のことがスッゲェー好きだったから」
「え、マジで?」
「気持ち悪いとか思ってんだろう? あのころの俺を思い出して」
「うん、ちょっと。なんてウソよ。男のHiToから『好き』なんて言われたの、何年ぶりだろう…」
「へぇ、意外な反応だな」
「まぁ、高校のときに言われてたら、マジで気持ちワル~イとか言ってただろうけどねぇ」
「今でも好きだよ。いや、今の遥風が好きだ」
「え、なに? なに言ってるの? 私、結婚してるのよ。キソクだって、子供がいるくせに!?」
「俺は、離婚してるよ。子供も、元妻が引き取ったよ」
「そう…そうなんだ。だから、なに? あれ、なんで? なんで私、ドキドキしてるんだろう!?」
「なぁ、これからホテルに行かないか?」
「ダ、ダメよ! 当たり前じゃない。ダメに決まってるわ。私、帰るね」
「送るよ」
「いい。大丈夫」
遥風は、立ち上がろうとする伴田を手で制して、足早に店を出ました。
ドキドキする胸を押さえ、顔を隠すように下を向き、すぐにタクシーを拾い、家路を急ぎました。
途中、伴田から電話が掛かって来ましたが、出ませんでした。
家に帰ると、そのままソファに坐り込んでしまいました。
夫以外の男を、知らないわけではない。
しかし、私は妻だ。
三人の子供の母親だ。
また伴田から電話が掛かって来たら、キッパリと断ろう。
遥風は、それを強く心に言い聞かせ続けていました。
しかし、伴田からは、電話は掛かって来ませんでした。
もう一度、電話が掛かって来たら…。
もう少し、伴田が強引な男だったら…。
遥風は、自分がどうなっていたかわからないと思いました。
もしかしたら、伴田の誘いを、断り続けることが出来なかったかもしれない…。
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