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【言語は時には凶器になりうる】 〜フォルケ留学🇩🇰〜



言語が引き起こす○○
初めて海外に来て、日本語以外に囲まれて生活する中で言語が持つ役割、言語は時には凶器にもなりうるということを学んだ。


そう感じたのも、第一言語がデンマーク語であるデンマークコミュニティー、フォルケフォイスコーレでの生活を経て感じるようになった。


今回は私の経験も含めてNoteに残していこうと思う。



【フォイスコーレでのクラスでの経験】


前回のフォイスコーレ生活では「バンド」クラスを選択した。
受講生とは20人ほど。その中で、インターナショナルの生徒は私は含め2名。
※ここでは、インターナショナルの生徒を「デンマーク語が全く分からない生徒と仮定」

出来事は、バンドの授業のフォーミングアップで「デンマーク語のラップ」を歌うというものだった。


私達インターナショナルは必死に歌おうとするが、母語でも難しい、ラップを歌うことは、デンマーク語を全く理解できない私達には不可能であった。

そして、1人のインターナショナルの生徒が居心地の悪さに授業を去った。そして、その部屋には私一人がインターナショナルという状況になった。


デンマークの人、文化を知りたいと思っている私は、分からないラップを自分の出来る限りで歌った。しかし、「デンマーク語のラップを歌う」という行為が、先生や生徒も授業中にデンマーク語を喋るという行為を引き起こした。


私自身、この環境にとても居心地の悪さを感じたが、その場にいるという選択を取った。

居心地はというと、「皆が自分の存在を無視しているような感覚。それでいて彼らに悪気はなく、この行き場のない感情の消化の仕方も分からない。」


それなら、無視するという意志があり無視される方がどんなに楽か。




【コミュニティーは排他的構造】

悪いのは彼らではなく、このコミュニティーのシステム、いや。コミュニティー自体が排他的構造になっているのではないかと思った。
コミュニティーの中にはどうにかしてマイノリティーが存在するわけで、誰かがその役割を担わなければならない。



だからこそ、「誰もが心地良く暮らせるコミュニティーづくり」について考える必要があることに気づいた。マイノリティー、マジョリティー、人種、宗教、性別、関係なくみんなが問題なく暮らせる社会づくりについて私たちは考える必要があるということ。


この世に、社会やコミュニティーがある限り、つまり人類が存在する限り、誰もがマイノリティーになりうる。





クラスにいるという選択をとった私だが、
フォルケフォイスコーレでの生活は、なんだかゴールのない籠の中で迷路をしている気分になることが良くあった。


ネズミがチーズを求め、同じ籠の中を探し続けるが、チーズは籠の外にあるというもの。(チーズはどこへ消えた?(本))



結局「自分で頑張り切れる環境」と「頑張ってもそれ以上望めない環境」があるということに気づいた。


頑張る、努力する場所も自分で判断し選ばなければならないということを知った。


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