他人を想うことは無駄だという話




人は生きていく上で、多くの人に出会う。
好きな人、嫌いな人、どうでもいい人…
そう、人は生きていく上で、他人との関係性から逃れることはできない。

そして、それはあらゆる場面で生まれる。
家庭、学校、職場、、、
この関係性はあらゆる要素によって構築されており、決して主観として完全に把握することが出来ない。
だからこそ、人は他人を想い、悩み、怒るのだろう。また、この主観における「他人を想う」ことは嘘が混じることはない。好きでもない誰かを好きだと想うようなことはないだろう。

ここからは個人的な考えとなる。
僕はこの「主観として把握不可(コントロール不可能性)」ということから、「他人を想う」ということが非常にバカバカしいと思う。
そんなクソみたいな戯言をインターネットという海に垂れ流そうと思う。


他人との関係性がコントロール不可能というのは、多くの人が体感として理解できるだろう。
自分が好きだからといって、相手がそうであるとは限らない。本当は仲良くしたいけど、意地を張り合ってしまう…。
だからこそ、悩むのだと。そう言いたくなるだろう。
しかし、個人的な経験から「他人を想う」ことによって自分が得をしたことがない。もっと言えば、自分が他人を想うことによって他人が幸せな気持ちになるといったこともなかったと思う。

なぜか?それは単純なことだと想う。
「他人を想う」ことは他人には伝わらないし、想いを伝えるならまた別の手段が必要になるからだ。
たとえば、言葉は最も伝えることに良い手段だろう。
ただし、伝えたい想いがそのまま言語化されるわけではないし、そもそも言語の世界では、"実際にそれがなかったとしても"言葉として他人に伝えることができる。
つまり、相手に伝えるという手段を取れば、それが真実であるかどうかということは問われず、"相手がどう捉えたか"が最も重要になる。
それがたとえ100%嘘であっても、受け取る側が好感を持てばそれは伝わったことになる。
だから、本質的に「他人を想う」ことは非常にムダではないか?というのが僕の理屈だ。

結論として何が言いたいのか?
それは、みんな目を背けたくなる真実よりも、自分にとって心地のいい嘘を好む。
これは人間の関係性において真理だと思う。
厳しい指摘をする人よりも、優しく慰める人を皆好む。
その人が本質として伝えたいことが何か、ということに目を向けることすらせずに。

ただ、これはそのようなことを取り上げて糾弾したいわけではない。
僕にもそのようなことには心当たりがある。

たとえば

「もうこの人とは会うことはないだろう」

そう感じた人には、最後に優しい言葉をかけることが多い気がする。

これはきっと僕の中に微かに残った他人を想う気持ちであり、卑劣なエゴである。

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