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SS【有明の月】#青ブラ文学部

山根あきらさんの企画「朝焼け」に参加させていただきます☆

【有明の月】(1630文字)


「いい夜よ。すこし歩きましょう」
「いいよ」
 ウトウトしながら体を沈みこませていたソファから立ち上がるのは困難だったけれど、彼女の声には有無を言わせぬものがあった。とても穏やかで静かな言い方ではあっても。
 ぼくは下腹に力を込め、できるだけなんでもなさそうに立ち上がった。立ち上がると軽くめまいがした。水みたいなハイボールをちびちびやっていただけなのに。

 彼女はテレビを消し、テーブルの上の鍵を取った。
「暖かいから上着はいらないわよね」
「うん」
 そう言う彼女は薄手のコートを着ている。
 少しひんやりしている気もするが、やっぱりぼくは彼女に「否」が言えない。時計を見るとすでに三時だ。この時間は厳密には夜じゃない、未明だ。しかもギリギリ夜明け間近の。それでもぼくは訂正せず、彼女の「いい夜」に付き合うことにした。

 外に出ると、高い空に下弦の月が小さく浮かんでいる。風も雲もほとんどなく静かだ。たしかに「いい夜」に違いない。もうすぐ朝だけれど…。
 彼女はぼくの少し前を黙って歩いている。隣に並ぶべきなのか、そして手をつなぐ…あるいは肩を抱く…べきなのだろうか。
 でも僕はむしろ一歩引いて彼女の後姿を見ながら付いていった。なにもするべきではないのだろう。ぼくの胸の内の「べき」は静かにうなずいた。それでいい、と言うように。

 かなり長く歩いた後、彼女が立ち止まって空を見上げた。ぼくは少しだけ歩を進め、彼女の隣に立った。ごく自然に。ぼくの中の「べき」は消えていた。
「朝が近いわね」
 腕時計を見ると、すでに四時近い。

「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」

 彼女が唐突に歌をよんだ。聞いたことがある歌だ。
「…百人一首?」
「そう。素性法師の歌。…すぐ来るって言ったから、九月の夜にずっと待っていたのに、有明の月が出てきちゃった、っていう歌」
「待ちぼうけの歌か」
「…夜が明けたのにまだ空に有る月のことを、有明の月って言うんですって。なんだか未練たらしいわね」
 未練たらしい、という彼女の言葉をどう受け止めていいのかわからず、ぼくは黙っていた。

「朝がきたら、さっさと太陽に明け渡してしまえばいいのに」
 彼女の声に、微かな怒りを感じる。
「バトンタッチみたいなわけにはいかないさ。自然の変化は穏やかなんだ」
 彼女は黙っている。やはり「否」を唱えてはいけなかったか。ぼくは彼女の手をそっと握った。ごく自然に、穏やかに。

「ぼくは好きだな。有明の月の…なんていうか、いたたまれなさそうで、いじらしい感じ」
「あなたは優しいから」
 彼女が、ぼくの手を握り返してくれる。ぼくはホッとする。
「待ちぼうけさせる男なんてゆるせない」
 彼女の手から微かにふるえが伝わってくる。なるほど、そういうことか。

 君は恋人をずっと待っていたんだね…。

 
 ぼくも君に、ずっと待たされているけれど、ね。
 でもぼくは黙っていた。

 君は昨日、ぼくに「十二時頃に行けたら行く」と言った。そして三時にやって来て、突然ぼくを散歩に連れ出した…。
 人が聞いたら、君のほうこそ身勝手でゆるせない人かもしれない。

 でもぼくは、ただ彼女の手の温もりを感じ続けていた。ごく自然に、穏やかに。人がどう考えるかはわからないけど…ぼくの中に怒りはひとかけらも、ない。

「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」

 ぼくは、この歌の人が一晩中想い人を待ちわびた挙句に、有明の月を見つけた時の気持ちが、恨みや悲しみとは限らないような気がした。むしろ、ちょっとばかり微笑んでしまったのではないかとさえ想像する。
 あらまぁ…月が出ちゃったわ、やれやれ、みたいな。

 いつの間にか泣いている彼女の手を、ぼくはずっと握っていた。ぼくの目はずっと月を見ていたけれど。
 ぼくは今この瞬間、彼女を愛し、必要とされている。そして月を見て美しいと感じている。

 ただ、それだけのことなのだ。


 もうすぐ夜が明けて、朝焼けとともに有明の月は姿を消していくだろう。
 未練などなく、微笑みながら、ゆっくりと。


おわり


© 2024/3/7 ikue.m


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