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嘘の素肌「第32話」

 渋谷から恵比寿に移動し、村上が太鼓判を押す中華料理屋へと足を運んだ。恵比寿駅を出てすぐ、アトレ坂を登った先にある雑居ビルの一室。アパートのような隠れ家的外観の扉を開くと、赤で統一された本格的な内装が視界を埋め尽くした。「ここの火鍋が絶品なんですよ」村上と僕はカウンターの左端席に通され、村上を壁側に座らせた。看板メニューである麻辣香鍋は二十種類以上のスパイスを沢山の具材で食べる汁なし火鍋で、元々付属する野菜類に加え、お好みで肉や魚の追加もできた。おススメを訊くと「ラム肩ロース」と言われたので僕はそれを、村上が好物のソフトシェルシュリンプを鍋のオプションとして注文した。

 青島ビールで二人、グラスを鳴らす。ビールがやけに旨く感じたのは、心なしか村上との再会に浮足立っている自分がいるからだろう。だとしても、四年ぶりに、ほぼ失踪のように姿を眩ませた身分である僕が今更村上に先輩面はできない。二人きりになって更に言葉選びに苦戦していると、「ほら、今日ぐらいは飲みましょうよ」と、青島の瓶を持ち上げた村上に気遣われながら酌をされた。「今夜はお前の作家デビュー祝いでもあるだろ」僕はお返しに、彼のグラスを顎で指した。半分くらい残っていたビールを一息で煽った村上がグラスを傾け、「嬉しいです。やっとですよ。桧山越えとまではいかないけど、肩を並べてもいい場所までこれたんですから」と微笑んでいる。毒牙の抜かれた村上は昔から愛嬌の塊なのだ。

「謙遜しないでくれ。今じゃ僕よりお前の方が優秀なんだから」

「やめてくださいよ。俺、これでも今めちゃくちゃ泣くの我慢してるんですから」

「どうして泣く必要があるんだよ」

「だってずっと憧れてた人と四年ぶりに酒を酌み交わしてるんですよ。いきなり消えた背中を追い続けて、この四年間死ぬ気で生きたんです。自分がいつか作家になれた時、桧山さんの目に俺の活躍が飛び込んでくるぐらい、大きい存在になろうって決めてたから」

「そっか」彼の熱量にあてられそうになり、僕はさりげなく話を逸らすことにした。「『パープルノイズ』読んだよ」

 村上がこちらに身体を向け、わざわざ両手を膝の上に置く。

「どうでした」

「面白かった。村上が書きたいことが、説教臭くなく作品に溶け込んでたな。報われない青少年を被害者として扱い切るんじゃなくて、彼女らが存在することで迷惑を被る人間がいる、それはつまり加害者としての認識も読者にちゃんと植え付けてたからよかったな。先入観で視点を絞ることはせず、考える余白を読者に対し与えてくれるところが、優秀で情熱的な村上らしい小説として仕上げてたと思う。久しぶりに心躍る本を読んだよ」

「桧山さん」俯いた村上の声が震えている。そうだ。この四年、彼がどれだけ苦しんだのか、それは村上の性格を知っている僕からすれば想像に易いことだった。諦めなかった。負けなかった。そして掴んだ。「本気で、すっげえ嬉しいです、すみません、語彙力なくて」

「酒呑むときぐらい語彙力棄ててくれ。そうじゃなくちゃ僕は作家先生と楽しく呑めないから」

 冗談を言ったことで、きつく締まった村上の表情が弛緩する。

「やめてくださいよ。でも奇跡みたいな気分です。桧山さんとはもう一生会えないかもって思ってたんで。あんな風にいきなり会社辞めて、みんな大騒ぎでしたよ」

「色々あったんだよ」

「色々ってのは、不倫がバレて居心地が悪くなったからですか?」

「え、待って何の話」

 虚ろをつかれた心地で空いた口が塞がらなかった。

「社内でめちゃくちゃ話題になってましたよ。あの桧山茉莉が、総務部の川端麻奈美と不倫してたって。俺の同期だった岡田って女覚えてますか? あいつがたまたま桧山さんと川端さんが池尻で呑んでるのを発見して、興味本位で尾行したら二人ホテルに入ったって。桧山さんの退職時期も川端さんが退職してからすぐ辞めたから、社内では駆け落ちしたんじゃないかって説も浮上してました」

「なんだそれ」

 思わず笑いが零れる。まあ、内情を知らなければ僕の退職理由としては不倫の線が妥当だろう。

「実際どうなんですか。駆け落ちしたんですか」

「半分正解、半分不正解」

「え、じゃあ」

「彼女は今アメリカにいるよ。これは村上だから話せるんだけど、確かに当時、僕と彼女の間には不貞な関係があった。でもその不埒も、彼女が植物状態の息子を治す為、似たような症例がある大学病院の近くに家族総出で越したことで終わった」

「意外と大恋愛だったんですね」

「恋愛ではなかったな。それに、会社を辞めたのは彼女が理由じゃない。面白いゴシップネタを土産話として持ち帰らせてあげれなくて悪いね」

「誰にも話しませんよ。そしたらなんで辞めたんですか。最初から画家に転身するつもりで?」

 僕は首を横に振った。

「じゃあどうして」

 少し考えてから、なるべく乾いた声を用いて、

「死んだんだ。親友だった男と一緒に、これまでの僕も、あのときにね」

 と、伝えた。

「それって、あの、もしかして、」

 村上の言葉を遮るように、卓には火鍋が運ばれてきた。大きな唐辛子がいくつも銀の大鍋に散らばっており、それを摘出する為の別皿とトングが用意された。硬直する村上の代わりに唐辛子を鍋から一つずつ取り除き、皿に肉と野菜をバランスよく盛って村上へ渡した。

「あの、亡くなったのって、和弥さんですか」

「ああ」湯気にカプサイシンが染みているのか、鍋の上に顔を近づけると目がしばしばと痛んだ。「村上は例の授賞式で『カート・コバーンなら死んでた』って言ってたけど、アイツはカート・コバーンだったんだろうな。二十七歳だった。何も為せてないままだから、ちょっとニュアンス違うんだろうけど」

 持って回った言い方でも村上には伝わると思った。

 言葉を生業とし、自分の中で洗練された語彙がある村上が僕に何を言うか気になったが、彼は一言も発せず、その事実だけを噛み砕きながら唇を縛っている。

「ごめん、いきなり重たい話。とりあえず食べようか。辛そうだけど旨そうだ」

「はい。頂きます」

 それから店を出るまで、僕らがその話題を再び持ち出すことはなかった。きっと多くを語らずとも村上は全てを察してくれたのだろう。大辛に設定した火鍋は箸を進めるごとに舌を痺れさせたが、奥行きのある味わいはクセになって旨かった。〆には香港麺をオーダーし、たっぷりのダシが出た辛いタレと混ぜてそばのように啜った。

 熱る口内を冷ますべく、退店後の僕らは恵比寿横丁に向かって歩き出した。まだまだ酒を飲みたいと勢いだって、積もる話題を交えながら何軒か居酒屋をはしごした。仕事の話。絵の話。小説の話。女の話。猫の話。村上との間で会話の種が途切れることなく時間が過ぎ、二十三時を越えた頃、村上はふと思い出したかのように「俺、桧山さんのアトリエに行ってみたいです」と言った。

「いいけど、立川だから村上の終電なくなるかもよ」

「明日は有給取ってあります。今日くらいは朝まで話しましょうよ」

「汚いけどな」

「大丈夫です。やっぱり俺、もっと知りたいです。桧山さんの四年間に、何があったのか」

「別に面白くないけどな」

 景気良く酒を呑んだ満足感を連れ、僕と村上は新宿行きの山手線に飛び込んだ。車窓の先で流れる風景を眺めながら、僕はこれから何を話そうか、話すべきなのかを、ただ独りでに考え続けていた。




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