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嘘の素肌「第33話」


 立川に降り立つ直前、村上をあの部屋へ連れていくことに億劫さを覚えた。これだけ僕を敬ってくれている後輩に対し、現在僕が巣穴に使用している部屋が築二十年の古典的なRC造の賃貸である事実が、単純に惨めでならなかった。なので道中、僕はその部屋がアトリエであることを強調し、現在は面の良い女と同棲している旨を淡々と説明した。村上が女の顔写真を所望してきたので、「片山いずみって検索してみな」と返した。電子タバコの煙を蒸かしながら歩いていた村上が立ち止まり、「マジですか、あのイズミン?」と驚愕している。僕は自慢の片鱗を豪も見せずに頷いた。

「やっぱり桧山さんは何事もスケールがデカすぎます。さすがにちょっと嫉妬しました」

 村上の苦笑が、俗世間でのいずみに対する評価の高さを物語っていた。もう長く彼女の傍に居ることで薄れた特別感が少しだけ湧いてくる。

「狭いけど、どうぞ上がってくれ」

「お邪魔します」

 アトリエに着いてから、村上は不自然なくらい沈黙を貫いていた。言葉に困ったというよりは、この部屋に散らばる数々の物品で僕の四年間を自力で慮ろうとするみたいな、丁寧過ぎる仕草として僕には映った。そんな村上を僕はひとまず放置し、二人分の珈琲を淹れ、ゆっくりと煙草を吸った。僕がこれまでに描いたスケッチやクロッキー、ドローイングを飽きもせずに村上はパラパラと眺めている。音が欲しくなって音楽をかけようか悩み、結句アイパッドで映画を垂れ流すことにした。作業用BGM代わりに流し続けたスタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』を、サブスクリプションから選択し、再生する。飽きてくると『フルメタル・ジャケット』や『2001年宇宙の旅』、『アイズワイドシャット』『ロリータ』なんかも流したりするが、基本は『時計じかけのオレンジ』が一番多い。全て字幕版なので、下手な日本語に意識が振り回されずに済むから映画を背景に絵を描くと筆が乗った。

 冒頭、ミルクバーのシーン。仰々しい音楽に合わせ、アレックスの独白によって映画は始まる。薄暗い部屋で発色の良い白ツナギを纏ったアレックス達の映像を視て村上が、「キューブリック好きだったんですか。なんか意外ですね」と言った。

「僕より和弥の方が好きだったよ。影響されたのかな」

「桧山さんが絵を描き始めたのは、和弥さんの自殺がきっかけですよね」

 僕は何も返さなかった。シーンは転じ、鼻歌を唄うホームレスの老人をアレックスらがリンチする場面に切り替わる。橋の下に寝そべる老人の腹に杖を突き刺すアレックスの横顔は悪人そのものだ。

「俺、正直和弥さんのこと全然知らないし、実を言えば良い印象もなかったんです。桧山さんは酒の席でいつだって和弥さんを崇拝して俺に語ってくれるけど、俺からしたらいくら和弥さんの武勇伝を聞かされても桧山さんの方が凄いと思ってたし、その人は本気で画家になる為に努力してるのか半信半疑だったし、そういう部分がわからないから、ただ退廃的な男ってイメージばかりが和弥さんに対して先行してました。だって俺、和弥さんの絵を一枚も見たことがなかったですしね。でも、こうして四年間、桧山さんが死ぬ気で絵を描いた事実こそが、和弥さんがどれほどの人間だったのかを証明しているんだろうなって、なんとなく伝わってきました。まあ、それでもやっぱり俺は桧山教なんで、会社辞めた理由を作った和弥さんにちょっと不満がありますけどね」

「桧山教なんてやめてくれ。ペテンみたいだ」

「いいじゃないですか。桧山さんが和弥さんを信仰していたように、俺だってあなたを信仰してるんだから。人間、生涯で一つくらい盲信し続けるものがあって損ないと思いますよ」

 信仰。盲信。かつての僕にとって和弥は紛れもなくヒーローだった。でも、それは僕がそうこじつけたに過ぎなかった。ヒーローも神様もいない。僕の隣にいたのは、自殺した売れない絵描きの男だった。それだけのこと。

「桧山さん」

「ああ」

「今、絵を描きたいって想いがあって描いてますか」

 村上は映画に視線をやりながら呟いた。夜更けの廃墟で、女のレイプに勤しむ敵対グループにアレックス達が喧嘩を吹っ掛けている。——これは珍しや、悪臭デブのビリー・ボーイ。むき出しで、はしたなや。なんじは腐った油を詰めたボトル。ヤーブル睾丸に一発キメてやる。去勢豚にもヤーブルがぶら下がってればの話だ。気持ちが良いほどの汚言がアレックスにはよく似合う。

「どうだろうな」

「俺には、最近の桧山さんの絵は、もう描きたくない人の絵にしか見えません。もしかして、既に気づいてるんじゃないんですか。いくら絵を描いて、自分の名を売ったところで、和弥さんへの贖罪は達成されないってことに」

「贖罪? 勝手に死んだのはアイツで、迷惑を被ったのは僕の方だろう」

「じゃあなんで『ディスコミュニケーション』とか、『赤の時代』とか呼ばれる絵ばかりを描き続けたんですか。桧山さんは理解しようと努めたんじゃないんですか。手遅れになってしまったからこそ、親友の希死念慮について、同じ方向を見つめることで貪欲に」

「別に僕はお前みたいな聖人君子とは違うよ」

 素っ頓狂な風で応えるが、村上は依然、真摯な眼差し。

「桧山さんは確かに強い人です。でも、同じくらい脆くて不器用な人だから、自分を納得させる解釈ができる反面、自分の痛みだって簡単に誤魔化せる人だと俺は思ってます。和弥さんを嘘でも呪い続ければ絵を描き続けることは可能かもしれないけど、いつの間にか筆を握る手は血だらけになってしまう。桧山さんはとっくの昔に筆を握ることが難しいはずなのに、松平が無理矢理あなたに絵を描かせるから、それが知らない間にどんどん自分を追い込んで、今みたいな想いのない空疎な絵ばかりを生み出してしまう結果に繋がってる。和弥さんを理解する為に描き始めた絵が、和弥さんを蔑ろにする行為になってるんじゃないんですか。穿った解釈をする必要なんてないのに」

「悪いけど、僕は村上が期待するような善人じゃない。僕が和弥に対して考えてるのは一貫して復讐だよ。才能がないから死んだ人間へのあてつけとして、僕が売れてやろうって考えて、絵を描き始めただけだからさ。わかってくれ」

「わかりませんよ。いったい二人の間に何があったんですか」

 釈然としない村上に対し、僕は和弥との過去を装飾せず事細かに話した。僕を裏切り、嘘を介し、何も言わずに死んだ男の全て。親身になって一通りを聴き終えた村上が、「やっぱりわからない。だったらどうして瑠菜ちゃんとの関係は切らなかったんですか」と強い調子で言う。

「俺が桧山さんだったら、会社や知人との関係を切ったら、呪うべき和弥さんの妹である瑠菜ちゃんだってほったらかすと思います。でもこの四年間、変わりゆく環境の中で唯一、瑠菜ちゃんだけは自分から積極的に干渉し続けたんですよね。彼女が楽しく生きられるよう、支えてあげようとした。それが何よりの、和弥さんを憎んでいない証拠になってるじゃないですか。兄を失った瑠菜ちゃんの悲しみは、親友を失った自分よりも大きなものだと自覚して、瑠菜ちゃんを支え続けてきたんですよね。なんか、こんな言い方絶対に間違ってるけど、俺からしたら今の桧山さんはまるで、和弥さんを殺したのが自分であると解釈したいだけに視えます。それが一番、楽になれるからって」

 ——僕が和弥を殺した。そうだ。そうなんだよ、村上。

「桧山さん、わざと一人で苦しもうとしてませんか。言霊ってあるから冗談でもこんなこと言いたくないけど、全部背負って、今だっていきなり消える準備をしてるんじゃないんですか。だから松平のような男とも関わってる。アイツが裏で何やってるか、うっすらとは気づいてるんじゃないんですか」

 松平颯馬に礼を言うことは幾つもある。しかし彼が善良な人間だとは思わない。秀才故に、敗北を赦せない男。その根幹に何かしらコンプレックスがあるのだろう。

「彼は僕にはできないこと、全部やれる男だよ」

「違います。桧山さんがやる必要のないことを、やってしまえる人間ってだけです」

 それから村上は、僕が噂話程度に掴んでいた松平の裏の顔について、知っている限りを洗い浚い話してくれた。彼は表現者を支えるプロデューサー的立場を利用し、裏では業界人との繋がりを強く結んでいた。タレントやアーティストを目指す女性には業界関係者に高値で夜を売りつけたり、クリエイターが稼いだ金のロイヤリティを不正に毟り上げ、文句がある場合は契約解除という手段をとったりもする。荒稼ぎした金がどこへ流れているか疑問だが、村上もこれは信憑性が無いと前提条件を張った上で、松平のバックには暴力団関係者がいるという嘘みたいな内容を話していた。彼の生まれ育ちは知らないが、別に松平ならおかしくはないと思えてしまうところが少し悲しかった。

「俺が賞獲ってぶっ飛んだスピーチしてバズった時も、実は松平からすぐに連絡来たんですよ。『俺なら村上先生の小説を、もっと広い読者へ届けることができます。』って。ほぼマルチ商法みたいな雰囲気がありました。アイツはオンラインサロンやってますけど、月額の会費いくらか知ってますか。十万ですよ。一写真家の男が。ぼったくりが過ぎますよね」

「それで村上は、あそこまで松平にヘイトがあったんだ」

「憧れの背中に泥を塗ってるふざけた男を赦せるわけがない。桧山さんだって、もしかしたら松平にとっては好いカモ程度に思われてるかもしれませんよ。ユーチューブ収益とか、絵の売買に関する売り上げとか、ちゃんと松平に訊いた方がいいですよ。お金に興味がないあまり疎いとこ、昔からありますし」

「別に何されても構わないって僕が思っちゃってるからね」

「だめですよ。警戒心が無さすぎる。いつか裏切られたらどうするんですか」

「どうって、どうもしないよ」

「今一緒に暮らしてるイズミンも、松平の息が掛かってるならしっかり見極めないと」

「いずみは平気だよ」

「何が平気なんですか」

 押し黙ってしまったのは、村上との会話で自分がこの四年という歳月でどう変化したのか、身に沁みて痛感したからだった。もし、僕があの頃の僕であれば、松平に不信感を抱き僕を憂いた村上とも真剣に向き合えていたのだろう。何も感じなかった。ただただ気が滅入る。松平もいずみも、いや、もっと大きく言えば他人のことなど興味がないのだ。どれだけ祈っても、思考を繰り返しても、世界はなるようにしかならない。暗澹たる心地で彼の希望を吸収するような眼差しを覗く。村上の目には光があって、それがどうしようもないくらい怖くて、僕は首を竦めた。弱いとか、情けないとか、そういう次元にすら僕はもういない。

「なあ村上」

「はい」

「お前からしたら今の僕に対して思う部分はいくつもあるんだろうけどさ、別に僕はもうどうだっていいんだよ。ごめんな。まともに耳貸してやれなくて」

 眼前に佇む村上の悲しそうな表情を、僕は一生忘れないだろう。四年前の彼と今の彼は一切の変化なくそこに存在した。それが僕を映す鏡となって、今の愚かな自分を体現するみたいな時間をそのあとは過ごした。僕はもう戻れないのだ。どれだけ過去を語ろうと、美化しようと、あの日感じた痛みを二度と感じない為には、無でいるしかない。もう痛いのはうんざりだった。





 始発電車出発の十分前、閑静な駅構内の改札口で村上と別れの挨拶をする。

「今日はありがとうございました。元気そう、って言うとちょっと違うけど、生きてる桧山さんの顔が見れて嬉しかったです。身体は大事にしてくださいよ」

「ああ、村上も無理しないでな」

「なんか今生の別れみたいで厭だから、俺とは月一でちゃんと飲みに行くって約束してください」

「それくらいなら、構わないよ」

「よし。じゃあ最後に桧山さん、生意気発言いいですか」

 口角を不自然なまでに持ち上げた村上に「いいよ」と告げる。

「そのロン毛、似合ってないですよ。それじゃあ」

 少年が同級生を煽って逃げ出すような、そんな平和な空気を最後に作って、村上はホームへ続くエスカレーターへと走り去る。

「知ってるよ、僕だって」

 彼の背中に独り言ちり、僕は村上と歩いてきた繁華街へ踵を返した。



 村上を駅まで送り届けた後無性に酒が呑みたくなって、二十四時間営業の居酒屋で単身、我を忘れて吐くまで痛飲した。いずみからは僕を心配するメッセージが届き、何度か着信もかかってきたが音信不通を貫いた。三時間で焼酎の水割り三杯に、安い日本酒を八合摂取した肉体は狙い通り三半規管を壊してくれた。鼻腔に吐瀉物の臭いが張り付いたことで莫迦な満足を得た僕は、朝九時の健全な外気を吸う為に店を出た。

 路傍をふらつきながら歩いていると、通行人に白い目で視られた。平日の朝っぱらから、いい歳した男が冷や汗をかいて酔っぱらっているのだ。ささくれだつ気持ちもわかる。瞳の焦点が合わないでいる。途中、すれ違いざま肩がぶつかりそうになって舌打ちをしてきた中年男性に、「殺すぞ」と怒鳴って、僕はその場から逃げるように走った。滑稽。なんだっていいのだ。苦しくない。痛くもない。悲しくもない。薄れゆく感情の起伏。無痛こそが僕の背負う罰の貌で、人間を辞した先にあるのはきっと、正しい自死なのだから。これでいい。頭ではこじつけられた。親友を殺した僕は死ぬべき人間だと、それが最適解であると何度も己を納得させたはずだった。なのに、今、震える指先で、ほとんど無意識に瑠菜へと電話をかけてしまっている。僕は何がしたいんだ。呼吸を整えながら、北口のピロティ、ウッドデッキに項垂れて瑠菜からの応答を待った。早く出てくれ。瑠菜、僕は、もう。「もしもし。おはよう。どうしたの、こんな朝早くに」瑠菜の無垢で溌剌な声に安堵するも、言葉が喉に閊えて上手く喋れない。「茉莉くん?」無音の電話を訝しむ瑠菜。違うんだ。僕が言いたいのは、あれ千切れんばかりに絞った声でただ一言、「ごめん、瑠菜から和弥を奪って、ごめんなさい」と言った。

 電話の向こうにいる瑠菜が黙ってしまったので、朝から迷惑な電話をかけたことへ謝罪をし、一方的に通話を切った。本当に言いたかったことなんて、存在しないんだから。僕が和弥を殺したんだから。解釈違いじゃあない。これでいい。和弥の遺体を火葬する間、救いも光りもない場所で、僕は地獄を歩むと決めたのだ。

 アトリエに向けてとぼとぼと歩いていると、いつの間にか曇天と化した空から雨粒拍子の雫が頬に触れた。通り雨だろうか。昔は特別な意味を持っていた雨も、今となっては苦しいだけだ。庇に身を隠すこともせず、空を仰いで雨粒を飲む。毒ならいいのに。——なあ和弥、なんで僕だけ生きてるんだろうな。罪滅ぼしのつもりはないんだ。ただ、あの日死んだのが僕なら、きっと世界はうまくいってたんだろうなって。ごめんな、あの頃の僕が、死にたい人間じゃなくて。先に僕が消えたらさ、和弥はきっとピカソになれたんだろうな。お前の真似して生きてもさ、僕は結局贋物だったよ。濡れ鼠の身体は、気づくと部屋の前に着いていた。鍵を差したが既に開錠されており、軽い感触が銀を掴む指先へ伝わる。重たい扉を開くといずみが玄関まで走ってきて、濡れそぼった僕の身体を強い力で抱きしめた。「おかえりなさい。丸一日返信が無いから、不安で来ちゃった」勝手に来るなよ。「雨大丈夫だった? 傘差さなかったの?」傘なんてねえよバカ。「もー、何時まで飲んでたの」なんで此処にいるんだよ。「ところでさ、さっきまで誰といたの?」一人になりたいのに、どうしてお前はいつも間が悪いんだよ。「茉莉が誰と過ごしてるか、颯馬に聞いても返事こないし、まさか女の人と一緒にいたりした?」だったらなんだよ。てか誰だよお前。「ねえなんで黙ってるの。私、茉莉が女と一緒にいても怒らないけど隠し事されるのは嫌なだけなの」五月蠅い。「私、すっごい寂しかったんだよ」ちょっと黙ってくれ。「茉莉も寂しかった?」黙れ黙れ黙れ黙れ!「最近の茉莉、私が誘ってもしてくれないし、」さっさと死ねよ、気持ち悪いから。「もしかして別に好きな人でもできちゃった?」最初から僕はお前のことなんか。「茉莉? ねえきいてる?」僕は無言でいずみを壁に叩きつけ、無法な言葉たちを殴殺するみたいに乱暴なキスをした。そのまま勢いでスカートをたくしあげ、ストッキングを破り、ヴァギナに指を捻じ込む。濡れていない。そりゃそうか。滴っている水分は、僕が空から吸収した雨水のソレだ。「ねえ、触るのはいいんだけど」いずみの手が僕の右手を包む。「せめて指輪外して? いつも中指で触られるとき、冷たくて気持ち悪いから」殺したいって、こういう感情なのかもな。いや、バカらしいな。僕が死んだ方が楽だ。お前の勝手な感じ、母さんそっくりだ。被害者みたいな面してさ。もういいや。別に。

 僕は指輪を中指から抜き取り、方向も定めず投げ捨てた。小刻みに跳ねるリングの音を聞いたいずみが僕の首に腕を回し、「ん、大好きだよ、茉莉」と呟いた。胃袋は空っぽになるまで雑踏で隠れて吐いてきたのに、熱を持った吐瀉物が再び逆流してきそうだった。



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