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嘘の素肌「第13話」

 ホテルを出る直前、麻奈美さんが僕へ現金で三万円を手渡してきた。少しだけど、受け取って。恒例となった別れ際の金銭贈与。僕はその金を財布に仕舞った後、すぐに和弥へ連絡をした。

 麻奈美さんから貰ったお金は、必ず和弥との酒に使うと決めていた。彼女が僕との関係にあえて金銭を挟むのには様々な理由がある。それをすすんで語りたがる無粋さを麻奈美さんは持ち合わせていないが、きっと彼女が僕を娼婦のように買っている構図こそが、麻奈美さんにとって僕との不貞行為を継続できる大儀になるのだろう。旦那に愛想を尽かし、母として日々家庭を顧みる彼女も未だ、女でいたかったのだ。しかしそれが僕との純粋な相愛によって繋がってしまうと、彼女の中で規範したモラルに抵触してしまう。愛が足りないから、金で愛をインスタントに買う愚図さと堕落。僕は内心、嫌々麻奈美さんの享楽に付き合っていて、労働的なテンションでその欲望を相手どっている、という設定が、己が惰弱さに打ちひしがれない麻奈美さんの逃げ方だった。

 僕が一度寂しさに負けて麻奈美さんに「愛してる」と呟いた時、彼女は笑みを崩して僕を睨んだ。——そういう気持ちがこれ以上強まるなら、私とは会わないで。別に桧山くんを困らせたいわけじゃないし、あわよくば一緒になりたいなんて思ってない。これは遊び。全部嘘。勘違いしそうなら関係は終わらせるから。

 麻奈美さんのことは未だによくわからない。でも、それ以上に彼女は僕のことがよくわからなかったのだろう。だから目に見えるもので公式を作る。個人娼婦を買う感覚であれば、彼女の心は純粋に逢瀬を満喫することができるのだ。

 そういう穿った見方をすれば、僕と梢江は変わらなかった。交わって、金銭を受け取る。断片的なキーワードのみを並べたら僕と梢江は同類だ。しかし、梢江と僕には根本的な違いがある。希死念慮というやつだった。初めて梢江の裸に触れた際、二の腕から手首にかけて百に及ぶ白い線の跡が視界を奪った。彼女の部屋へ遊びに行って、半ゴミ屋敷の中で咳止め薬の空箱を踏みつけた時、僕は地雷を踏んだ兵隊のような喪失と絶望を味わった。——死にたいって思って、じゃあいざ死のうとして、うまく死ねなくて、そしたら二十七歳になってただけの人生だよ。多くの人が生きていたいと願うように、私は生まれた時から死にたいと願ってた。この世には案外あるんだろうね、先天的な希死念慮がさ。自殺する人の皆が皆、後天的な要因のせいじゃないと思うんだよ。私が死ぬとしても、それは不遇や鬱のせいじゃない。だって天国って楽しそうでしょ。まあ、私の場合は地獄かもしれないけどさ。今だって現在進行形で悪いことしてるわけだし。私のことなんか信じられないでしょ。いいんだよ。ヒヤマリはそれで。

 梢江がビニール袋に分別もせずカップ麺の空やお菓子のゴミを詰め込みながら話していたこと。ゴキブリがベッドの下から本棚へと走り去ったが、彼女は微動だにせず舌打ちだけをした。そんな部屋で梢江を抱いた夜に、彼女から一緒に死んでくれるのか言及され、僕はその言葉に唇を重ねる動作で答えた。梢江が甘い声で僕を狡いと言って、それから避妊具をつけずに何回もした。よくわからなかった。死にたいくせに、この人は生命の誕生を促すリスクを回避せず、目の前の欲求に忠実になる。冷静さを欠いて、自己中心的で、それでも僕に「愛してるって言って」と懇願する様は、これまで出逢ってきた女性にはない仕草で、僕は初めて、いや、人生で二度目、母に次いで憐れな女を知ることになった。

 恋などとは無縁に生きた身分でありながら、素肌の関係ばかりが増え続けた人生で、その二度目の衝撃は大きかった。梢江が死のうと生きようと関係ない。それでも、彼女が死ぬまでは、僕が彼女の中で唯一でありたいという利己が暴れていた。以来暇さえあれば梢江のことを想い耽り、我慢できなければ連絡をした。一人でいる時間に梢江のことを考えるほど、会えた晩の身体の相性が良くなっていく気がした。僕は此処で初めて、女に対し「最愛」という表現をあてがうことにした。和弥に倣った、気障ったらしい恋情の住処。梢江の全てを憎み、壊したく思い、何があっても赦してやりたい心地は、究極の愛であり、人間を逸脱してしまいそうな不安すら湧き上がった。



 麻奈美さんの三万円は最低でも使い切る心地で、和弥と町田の居酒屋を何軒かはしごした。半分くらいを使い切ったあたりでダーツバーへ移動し、単価の高いテキーラ観覧車を勢いだけで注文した。二十五ショット分が刺さったテキーラの猥褻な灯りに、僕ら頼んだ分際で少々怯みながらも、クリケットの敗北者がショットをひたすら煽り続けた。僕が六杯、和弥が十杯飲んだあたりで二人の肝臓に限界が来た。和弥が「誰か呼ぶかぁ」と独り言ちるので、僕は即座に「梢江は?」と提案した。

 梢江との再会を果たしてから早二か月が経ち、僕ばかりが梢江との親密度を深くしていた。その旨は和弥も勿論把握しており、「また三人で呑みてえな」という和弥の希望に今夜応えようとした。加えて梢江の方も僕と過ごす時間が格段に増えたことで、和弥の話を耳にする機会が多くなった。

「ヒヤマリはさ、ほんとに和弥が大好きなんだね」

 そういって煙草を蒸かした梢江が「私も仲間に入りたいな」と言っていた。


 電話をかけると、梢江は八王子にいるらしく、終電に乗って町田まで駆けつけてくれた。泥酔状態の僕は梢江が来るや否やすぐに飛びつき唇を奪うと、和弥が自分の頬を突き出して負けじと梢江にアピールする。彼女が和弥の頬にフレンチを差し出し、和弥は満足そうにテキーラを一ショット無理やり喉へ流した。テーブルに並んだ残り八杯は酒が強すぎる梢江が間髪入れずに飲み干してくれた。

「男ってだらしないね」

「梢江ちゃんがイカれてんだよ」

 黒いソファーシートに項垂れる和弥が、ほぼ瀕死の表情で呟く。

「和弥くん、今日はもう限界?」

「なーに」と思いきや突然起き上がり、煙草に火をつける。「余裕に決まってんだろうがぁ」

「ヒヤマリは?」

「僕はもうしんどいかも」

「情けないなぁ。これから三人で、朝までどっかで飲み明かそうよ。私、気合い入れてきたんだから、こんなんで帰されたらもう二度と来ないよ?」

「いいねえ、そういう女。俺は全然オッケーだぜ」

「さっすが和弥くん。ねえ、いいでしょ。ヒヤマリぃ」

 梢江が僕の腕を掴み身体を揺らすので、振り払うように「わかったわかった」と了承した。溌剌調子な梢江の参戦による鬱陶しさはあったが、他の何にも代えられない格別の愉しさもあった。親友と最愛に囲まれ酔い潰れる退廃的なひと時が、今の僕には必要不可欠なのだと痛感する。

「いくぞ男たち。私についてこい!」


 この日を境に、僕の要望で最低でも月に一度、三人で顔を合わせることになった。梢江と二人の時間は別途作ったが、和弥と会う予定が立てば、お互いの意識の中で梢江を仲間外れにする必要もないということになり、結句和弥とサシで会うことがめっきりなくなった。その理由に、和弥は僕と二人だろうが、間に梢江が挟まっていようが関係なしに自分の話したい話をしてくれた。梢江が大きく欠伸をしていても、創作論に熱が入れば構わず続ける。無論、僕も梢江を気遣って和弥の熱弁を遮ることはなく、その時ばかりは梢江をあえて仲間外れにし、僕らは親友らしく同胞の世界に飛び込むのだった。



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