嘘の素肌「第15話」
リヒター展に刺激を貰ってから、随分と眠らせていた創作意欲が不思議と湧き上がってくるようになった。前々から僕の絵が見たいという周囲の声は少なからず存在したが、今更趣味の延長線上にしかない絵を描いたところで生産性はないと敬遠していた。しかし、和弥の隣で青春を注ぎ込んだ「描く」という行為そのものを嫌いになったわけではない。描くだけ描いてみる。そんな思いで数年ぶりに町田の画材屋へ行き、とりあえずクロッキー帳と濃さの違う鉛筆二本、加えてねりけしを購入し、街を散策した。モデルにできそうな画があれば立ち止まり、制限時間十分と決めて速写を仕上げる。さすがに腕は鈍っていたが、絵を描くのはやはり楽しい。歩道橋で煙草を蒸かすサラリーマン。日光浴をする老人。クレープ片手に写真を撮り合う女性同士。ファストフード店に居座る中高生の群れ。ギターの弾き語りをする青年。人物モチーフをいくつか描き上げ、満足感に浸りながら家に帰った。
その晩、梢江が部屋に来てすぐ、僕はクロッキーを彼女へ見せた。
「えっ、想像の数十倍上手いんだけど、すごいね」
「それくらいなら。和弥という比較対象が無かったら、才能あるって慢心して画家目指せるくらいには、絵だけに没頭した学生時代だったから」
僕の絵を飽きもせず梢江がじっくり眺めているとインターホンが鳴り、和弥がキムチ鍋の具材を抱えてやってきた。寒さが本格化し始め鍋の季節が到来し、今夜は和弥がやりたがっていた鍋パーティーなるものを敢行する予定の日だった。十一月は和弥の誕生月なので、僕と梢江は密かにプレゼントも用意している。僕は本革の黒い長財布、梢江はディオールのソヴァージュを選んだ。梢江がいなければ和弥へプレゼントを渡すなんて発想には至らない。面倒臭さが勝るし、お返しに気を遣われたくはないし、何より十七年来の付き合いでプレゼントのやり取りは恥ずかしかった。
鍋パに浮足立った和弥が買ってきた肉は精肉店で100グラムあたり1000円もする国産和牛だった。経木に包まれた霜降り肉を見せびらかす和弥へ「そのお肉でキムチ鍋するの? センスなくない? 普通すき焼きでしょ」と梢江が水を差すと、彼は不貞腐れながら「うるせえなあ。貧乏人はすぐすき焼きを食いたがる」と口をひん曲げていた。
「貧乏人はどっちよ。私はパパがたくさんお金くれるから」
たまに忘れそうになるが、彼女は援助交際で飯を食っているのだ。ただ、梢江にそれをやめろとは思わない。僕もかれこれ麻奈美さんとの逢瀬をやめられないでいるし、別に誰に抱かれていようと僕が梢江を愛していることに変わりはない。
「そうだったな。パパ活女様、いや、頂き女子様でしたね。御見それしました」
「うっわ馬鹿にしてる。サイテー」
和弥はゲラゲラと笑いながら、ビニール袋から食材を取り出しキッチンに立った。その間、僕はこの日の為に通販で注文した大きな土鍋とカセットコンロをテーブルに用意する。梢江は僕ら三人分のハイボールを、パパから貰ったというシーバスリーガルの十八年もので作ってくれた。ステンレスのマドラーでウイスキーと炭酸を注いだグラスを軽くステアする梢江に見惚れながら、食器類の準備を終えた僕は一足早く煙草を蒸かす。「はーい、お待たせしましたあ」ホステスのように両手でグラスを僕へ差し出す梢江。「ありがとう。ほら、和弥も呑みながらやりなよ」手際よく野菜をカットする和弥の元に、梢江がハイボールを渡しに行く。「はーい、貧乏人さんには高級過ぎるハイボールでーす」可愛らしいトーンで発せられる厭味に対し、和弥はグラスに口をつけ、「ほんとだ。貧乏舌の俺には安ウイスキーとの違いがわからねえ」と破顔した。やっぱり僕は、梢江と和弥の交流を視ているのが好きだ。その微笑ましさを肴に舌を濡らす。甘みの強いシーバス十八年。梢江が作るハイボールは濃くて美味しかった。
三人でローテーブルを囲み、カーペットに腰を下ろして鍋をつつき合った。終盤、キムチ鍋の〆にうどんを買ってきた和弥を、僕と梢江で痛烈に批判した。
「じゃあ正解は何だったんだよ」
和弥に問われ、僕は「中華麺」、梢江は「チーズリゾット」と答える。
「なんだよそれ。鍋の〆と言えばうどんかおじやだろ。意識高すぎるんだよ」
「和弥くんが低いだけ。うどんって、ねえ?」
斜向かいで僕に視線を向ける梢江と笑い合えば、和弥が「まあ胃袋に入れたら変わんねえんだよ。ほら、残ってた肉も入れて、キムチ肉うどんで最高のフィナーレにしようぜ」と、菜箸で牛肉を再沸騰した鍋の中へガサツに流し込んだ。
「和弥は昔からそうだよな。ズレまくり」
「俺はいたってクールに、周りと同じように生きてきたつもりだけどな」
僕の言葉に返しつつ、和弥はチルドうどんの小分け袋を破き、三玉分投入する。
「覚えてる? 小六の図工で、一色だけ好きな色を選んで作品を作りましょうっていう授業があったこと」和弥がこくりと頷いた。僕と和弥が会話を始めると、菜箸を貰い受けた梢江は耳を貸しながら黙って鍋を仕上げてくれている。「奇を衒ってる奴があえて黒とか白を選ぶ中、和弥が何選んだかわかる?」
「わかんない」と、梢江が首を横に振った。
「和弥は図工準備室にあったデザインカッターで自分の掌を切って、その血で太陽を描いたんだよ。クラス中の児童及び担任がドン引きしてたけど、和弥はずっと楽しそうに、真っ赤な太陽の完成を目指してたんだ。気が狂ってるんだろうなって、当時の僕はそのセンセーショナルな奇才を前に太刀打ちできない気持ちでいっぱいだった」
「茉莉、あれはだな、違うんだよ」
「何が違うの」
「瑠菜が、」和弥の口から瑠菜の名前を聴いたのは半年ぶりくらいだろうか。「無意識に自傷行為をしちまう時期に入ってて、親も俺もどうしたらいいかずっと悩んでたんだ。それで、俺の手を切って、その血で絵を描いてみせてやりたくなったんだ。瑠菜は暑さに弱いから、ちっさい頃は太陽がすごく苦手だった。流血と太陽を結びつけることで、瑠菜が血を流すことへ恐怖感を抱けば、痛みを感じなくたって痛みを忌避できるんじゃねえかなって。でも、俺が一人きりの部屋でそんなことしてたら、親は俺まで心配するだろ。だからちょうどよかったんだ。授業の内容で『一色、好きな色を使って好きなものを描け』って課題が出たから、俺は血を使いたかっただけですって言い訳できるようにさ」
和弥は自分の手を天井の照明に透かせて眺めている。ここ数年の薄給生活のせいか、普段はろくに食べてないのかもしれない。元々がっちりとしていた和弥が、今は病人のように衰弱しているように見える。そうだ。思えば昔から、彼は理性的だった。先の話にあるような、意図された奇才としての在り方が上手い人だった。だから僕はすんなりと和弥を非凡だと認められたし、今だって信じている。ただ、村上が言うように、現在の和弥がどのような作品を描いているのか僕は知らなくて、本気の傑作とやらを見せて貰えたことがない。コンクールを獲る為に制作へ勤しんでいることは知っていても、それが油画なのか、デザインなのか、はたまた広義アートなのか、僕は何も知らなかった。
「なあ和弥」
もしかすると僕は、あの日の和弥を幻影だと思いたくなかったのかもしれない。一生傍で、一生天才であって欲しかった。僕のような素人を才能で黙らせる、奇才で狂人の芳乃和弥でいて欲しかった。それが僕にとって、和弥の特別さだから。瑠菜が無痛無汗症であるように、和弥にも天才であって欲しい。誰しもが畏怖する絶望と相対する彼ら。その仲介役として、僕は彼らの生活の脊椎でありたい。正しく前に進めるよう、僕が自立し、支える柱になる。その存在意義こそが、僕を何者かにしてくれる。
「あん? お、うどんイイ感じだな。食おうぜ」
でも、怖い。和弥の絵を視て、僕が何も響かなかったら、その時僕は和弥をそこら辺の夢追い人として等価してしまうんじゃないかって。僕は最悪だから、僕の憧れが堕ちたとしたら、もうこれまでのように向き合えない。親友なのに、いや、親友だからかもしれない。脊椎なんてのは甘な例えだ。僕は和弥の背中に隠れ、日陰の中にいたいだけだった。
「でもさあ。ヒヤマリも変人だよね。こんな人の親友、よく続けられるね」
梢江がお椀に盛ったうどんを先ず和弥へ渡した。
「さんきゅ。ほんとな。茉莉も大概イカれてんだよ。最初はホモかと思ってたし。ずっと俺の傍ウロチョロして、腰巾着みたいな時期もあったろ」
「あったな」
「なんでそんなに俺に執着するのか、よくわかんなかったけど」
「けど?」
「茉莉のアレを聞いて、納得したんだよ」
「アレ?」梢江が空かさず口を挟んだ。「アレって?」
「あー、まだ梢江ちゃんに話してなかったのか。まあ話す気になれないよな。普通」
気まずそうに後ろ髪を掻く和弥。この話をするのは、麻奈美さんを含め三人目だった。
「別に平気だよ。いつか梢江には話そうとは思ってたんだけど、タイミングが無かっただけ。どうせこれから先、僕は和弥に話したことも全部梢江に話すつもりだったから、急ぎでもなくてね」俯瞰してみれば凄惨な過去だとは思うし、傍からみれば忌まわしい史実かもしれない。でも僕にとっては、あの頃の痛みこそが今を形成する要なのだ。誰に何を言われようと、忘れたりはしたくなかった。「あの頃、僕はほんとに世界で一人だったんだ。小学校四年生で和弥と出逢うまで、ずっとね。恥を凌いで言えば、僕にとって和弥はヒーローだったんだろうな。明るくて、突拍子もなくて、妹を大切にしていて、夢があって、才能があった。だからこの人と一緒に居れば、僕も変われるかなって思えたんだ」
強烈な印象を以て現れた芳乃和弥の存在は、僕の不変を捻じ曲げる可能性を秘めたまさしく異能だった。何もかもが鬱屈としていた九歳。年齢にしてみれば幼過ぎるあの時分、僕はこの世の真理と嘘の本懐に若干児童の分際で核心を捉えていた。そして、親友へと発展した和弥を倣って、その蟠りを絵にぶつけることに熱中していた。僕は和弥と瑠菜、それに創作との出会いがなければ既に死んでいたかもしれなかった。呪いでしかなかった母が三年前に自殺した夜、和弥が僕を連日飲みへ誘ってくれなければ、僕も母の後を追っていたかもしれなかった。
「梢江は、どんな話をしても驚かない?」
「驚かないよ」優しい、落ち着きのある声だった。「信じて」
「ありがとう。言葉を選ばずに話すと、僕は九歳から十四歳までの五年間、実の母親にレイプされてたんだ」
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