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嘘の素肌「第22話」

 和弥の通夜は、葬儀屋の手厚いサポートもあり予想より早く行うことができた。検視を終えた遺体は依頼先の葬儀会社に回されエンバーミングの処置を受けた。息子の自死ということで母親や瑠菜はさすがに取り乱していたが、父親の冷静な応対によって近親者のみでなら葬儀も可能であると判断が降りた。自殺という懸念点を含め、数を絞った参列者の中で僕は受付を担当させて貰うことになった。葬儀場へ親族に次いで逸早く入場し、筆記用具や芳名帳、香典受け等を葬儀屋と準備し、手順を簡単に確認した。「お忙しい中お越しいただきありがとうございます」通夜開始三十分前。受付を開設し、形式的な挨拶をしながら、僕は芳名帳に住所と名前を記入する参列者をただ眺めていた。中には僕のことを知っている人の姿もあって、無駄な言葉は交わさず、その分、旧知の間柄という僕への気持ちを慮った表情で「この度はご愁傷様でした」と告げられた。香典を受け取りながら、和弥の人生についてをひとり耽る。通夜が始まってからも僕は受付から離れられないので、頭を動かす時間はいくらでもあった。しかし何を考えようと、和弥が本当に自らの命を絶った事実に上手く結びつかなかった。葬儀会社のスタッフが僕の焼香の為に受付を一時交代してくれたので、ゆっくりとその場を離れ、ホール内へと足を踏み入れた。衝立の隙間から覗く、立派な祭壇の中心で和弥は笑っていた。安置された棺を覆う菊の花に目を遣りながら、途中、親族席でハンカチを握りしめる瑠菜に視線を置いた。彼女はただ俯いて、零れ足りない涙を拭うことに必死そうだった。祭壇の前に立ち合掌瞑目しながら僕は、今、僕の吐息で燭台の灯が消えてしまえばいいと考えた。和弥が笑ってくれるなら、不謹慎だろうとなんだってしてやりたかった。

 通夜を終え、受付を片付けた後は通夜ぶるまいに参加した。僕は両親の配慮で瑠菜の隣に座ることになった。生臭い寿司の香りに吐き気を催して、献杯後は瓶ビールで舌を濡らすことしかできなかった。自殺者の通夜ぶるまいということもあり、和弥の死因を把握している者と、事故死であると説明された参列者とでは空気の質感が違った。どうして本当のことを公にしないのだろうかと子どもじみた疑問が浮かぶが、きっと葬儀屋の指示なのだろう。桶寿司の中、海苔が巻かれた卵焼きを差し、瑠菜に「ちょっとは食べたら」と提案するが、首を横に振られるだけで言葉は返ってこなかった。

 喪主である父親の挨拶によって通夜ぶるまいが散会し、会場から人の気配が段々と消えていく。父親たっての気遣いで僕に夜伽への参加を依頼してくれたので、今晩は父親と和弥の叔父、男三人で葬儀場に寝泊まることになっていた。何だか本当に和弥の親族になったみたいだった。

 斎場に完備された宿泊部屋で喪服からジャージに着替えた後、煙草を吸う為に一度外へ出た。月も暈ける曇天の夜空。春が目前と迫っているのに、三月下旬の寒風はやはり肌に堪える。何本か蒸かしていると、僕同様にラフなスエット姿へ着替えた父親が「おおう、寒いな」と呟きながら僕の隣に着いた。禁煙に成功した父親という事情を知っていた僕が焦って煙草をポケット灰皿へ押し付けると、「気にせず吸ってくれ。俺も実はこっそり吸ってるんだ」と、ポケットからアメリカンスピリットを取り出したので、新たに一本咥えて父親と自分の煙草へ火をつけた。

「色々と悪いな、君に頼ってばかりで」

「大丈夫です。母が亡くなった時、芳乃家の皆さんには沢山お世話になったので」

 体躯の良い父親からは、太くて芯のある煙が吐き出されている。

「すみませんでした。僕、和弥のことちゃんと見てなくて」

「謝らないでくれ。それを言い出したら、父親の俺にはもっと大きな責任が乗っているからな。和弥が決めたことだ。君のせいで死んだわけじゃない」

 父がいない僕にとって、和弥の父親はある種、イメージしやすい父親像を体現してくれていた。

「とはいえ、息子が自分で命を絶つなんて想像もしていなかったからな。今、俺がこうして暢気にヤニなんて吸っていられるのは、家内や瑠菜が不安定だからだろう。俺がしっかりしなくちゃいけないって、気張ってるからなんとか。情けない話だ。桧山くんは、大丈夫かい」

「僕は」やっぱりわからない。「きっと大丈夫です」

「そうか」半分だけ吸った煙草を僕の灰皿へ捨てた父親が、先に葬儀場へ戻ろうと踵を返した。「あまり長居すると風邪を引くから、程々にな」

「あの」

 僕に呼び止められ、振り返る父親。

「どうした」

「明日の火葬で、副葬品として埋葬して欲しいものがあるんです」

「ああ、かまわないよ。和弥にとって、大切なものなら」

「はい」

「ちなみにそれは、ちゃんと燃えるのかい」

 軽快な調子。父親なりの、柔らかい冗談だったのだろう。この人は正真正銘、芳乃和弥の父親なのだとわかる。

「燃えますよ。和弥と一緒に」

「なら問題ない」

 僕は手を振り歩いていく父親の背に深々と頭を下げた。

 翌日、葬儀と告別式を終え和弥の遺体を出棺し、父親が運転する自家用車に僕も乗って火葬場へと向かった。和弥の遺体は首元に大きな傷があり、それを隠す為に両目と首は布で覆われている状態だった。火葬前、棺に和弥が愛読していた芸術雑誌や画集、天国でも絵が描けるようにとスケッチブックや鉛筆などが親族によって入れられた。遺書を読んだ僕からすれば、あの世に行ってまで絵を描かせるのはどうかと思ったが、まあ描くかどうかは和弥次第なのだから入れる分には問題ないかと納得することにした。最後に、僕は父親から「桧山くんも」と促され、一枚の絵を供えた。和弥は本気で画家を目指していたから、作品を入れるような行為は誰もしなかった。唯一、僕だけが和弥の絵を燃やそうと思った。僕の部屋で、梢江と三人でキムチ鍋をした夜に、和弥が描いた梢江の肖像。生きている、実在している人間の絵は些か不謹慎にも思えたが、向日葵を抱えて微笑む梢江が、和弥の傍にいてくれたらいいと思って自宅から持ち出した。遺書の中に、梢江を彷彿とさせる内容が全くなかったことが、僕にはずっと心残りだった。梢江の気持ちを汲んで、せめて一緒に燃えるぐらいはさせてやってほしいと、和弥に頼み込む気持ちで僕はその絵を和弥の閉じた手元に乗せた。


 逝去から一通りのスケジュールを終え、僕は自宅へ戻った。

 並々ならぬ疲労と、心の空白を抱えたまま玄関に上がり、何も考えず浴槽に湯舟を溜めた。程なくして「お風呂が焚けました!」と電子音の溌剌なアナウンスが部屋中を駆け巡り、僕は喪服姿のまま湯船に飛び込んだ。瞬く間に毛穴から酸素が漏れ出すような感覚が襲ってきて、僕の身体の奥底で凝縮されていたはずの悲しみが、湯と混じりあって飽和していく気がした。脈拍の旋律を鼓膜の内側で捉える。蒸気の漂う湿っぽい浴室内で「和弥」と声に出してみると、あの聴き慣れた、飄々とした声色で「んだよ」と返された。幻聴とは思えぬほど、鮮明に。

「僕はこれから、どうすればいいかな」

 目を瞑り、一度身体を浴槽から這い出す。着衣泳が連想されるような、身体に張り付いて不愉快なワイシャツをぎゅっと握り、水分を絞った。水が浴槽に滴る音の中に、和弥の声が混じっている気がした。

「描けばいいさ」

「僕が?」

「そうだよ。そうすりゃ俺のこと、ちょっとはわかると思うけどな」

「わかったところで、和弥はもういないでしょ」

「かもな。でもくだらねえよ。俺が生きてるか死んでるかなんて、大した問題じゃねえ。大事なのは、お前がこれから、どう向き合って、どう歩むか、だろ。その世界で自分らしく息をするなら、俺が何を考えていたのか知見を得るってのは、必要な行為なんじゃねえのかな」

「描いたらわかるの」

「わかるさ。きっと」

 暗澹たる気分を脱衣するように、浴室内で全裸になって、衣類は全て洗濯機の中へ投げ込んだ。

 僕は全裸のままリビングへと向かい、濡れた身体も拭かずクロッキー帳と鉛筆を手に取った。ざらついた白の上に、鋭利な黒を突き立てる。「和弥、ごめん」息を詰め、奥歯から血が滲むほど力いっぱい噛んだ。泣くな。描け。悲しみは否応なく僕に憑りつくのなら、描いて、和弥を理解することに務めるしかない。

 鬱蒼の夜更けを過ごした。段々と過呼吸気味になって、手足が痺れ始め、時間だけが経過していく。掠れるほど擦り減った精神状態の中、何一つ描くことができない。それでも僕は、座ったデスクから離れることはなかった。いつか描ける。その瞬間を、辛抱強く待つしかなかった。


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